2008年12月25日

リアルタイムの迫力

 イギリスの作家ネビル・シュートが書いた小説『パイド・パイパー 〜自由への越境』(池央耿 訳)を読んだ。
 舞台は1940年、戦時下のフランス。イギリス人の老紳士と、子供たちが、ナチスドイツ軍の侵攻とパリ占領をかいくぐり、イギリスへ脱出する。

小説が書かれたのは1942年。つまり、第二次世界大戦のまっただなかで書かれたものなのだ。
(ノルマンディー上陸作戦は1944年、ドイツと日本の降伏は1945年。)
 つまり、書かれた当時は、この戦争がどうなるか、将来どうなるのか分からなかった。
(とくにこの時期は、ナチスドイツが優勢だった)

 なのに、とても冷静に、リアルに書かれている。
 空爆で人々が殺される光景も、そのため親が死んでしまった気の毒な子供も、味方の兵士も、主人公たちを助けてくれるフランス女性も、敵であるはずのドイツ将兵すら、人間として、リアルに描写され、かつアングロサクソン的な控えめな言動や表現が用いられている。

 イギリスがヨーロッパ大陸とは一衣帯水だったため、対岸の火事的な面もあっただろう。
(でももちろん、ロンドンも空爆を受けているのだが)

 困難な状況下でも、冷静に、ただただ自分の役割と責任を果たそうとする主人公を見ていると、
「やはりアングロサクソンの人って、すごい」
と思ってしまう。

■現場を知っている人がリアルタイムで書くと

 そういえば、石川達三の小説『生きてゐる兵隊』を読んだ時も、驚いたのだった。
 私は都内の図書館で借りて読んだのだが、閉架図書だったので、司書さんに頼んで出してもらった。それが1938年の出版当時の本で、仰天した。旧かなづかいで、伏字がかなりあった。

 が、そんなことは全く気にならないくらい、ほとんど一気に読んだ。
 リアルな描写と、冷徹かつ淡々と進むストーリーに引き込まれた。
(書かれてある内容は残酷なのだが。たとえば、冒頭、いきなり日本兵が中国人を殺すシーンで始まる)
 戦後、多くの作家が書いた、涙涙の物語とは全く違う。
 ただ、殺す。ただ、殺される。悲惨で血も涙もない(いや、血はいっぱい流れるが)戦争の現実を、いやというほど見せつけられる。

 石川達三は中国戦線に従軍取材し、その当時にこの作品を書いている。
 現場を知っている人がリアルタイムで書いたものならではの迫力だと思った。


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2008年11月26日

ジョー・R・ランズデールの小説『ロスト・エコー』を読んだ。

 ジョー・R・ランズデールの小説『ロスト・エコー』(北野寿美枝 訳)を読んだ。
先週末の3連休のうち、1日を使った。ふと読み始めたのだが、気がつくと、終日かけて1冊読んでしまった。うーむ…。以前にも、同じようなことがあった。ランズデール、恐るべし。って違うか。
 ちょっと超常現象が入っていて、殺人事件とかのサスペンス、アクションもあるのだが、青春小説みたいな趣もあって、良質かつおもしろい小説だ。

 ところで、きのうの日経に『日経―文字・活字文化推進機構 共催シンポジウム〜仕事に生かす読書術』の内容が掲載されていた。

 シンポジウムのパネリストの1人、東京日産自動車販売の林文子社長の発言、
「ダイエー(代表取締役会長兼CEO)時代は、非常に厳しい仕事で、人に話せないことも多い。よすがとして本を山のように買い込んでいた。人生で悩みがあるときは、すごく本を読めるものだ」
「すべては本の中にある。本に支えてもらってきた」
「本というものには先人の知恵や経験などが込められており、生きる助けになる」
に、感動した。

 林氏と私とでは、レベルはぜんぜん違うけど、私も、つらい時には本が唯一の助けであり救いだった時期があった。
 人生や、何かについて、「これについて、どう考えればいいのか」と悩んだり迷った時、本に(文学書や哲学書じゃなくても、小説や読みやすいハウツー本でも)教わったことがたくさんある。
posted by 田北知見 at 16:43 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2008年10月16日

なんか似ている…?ノンフィクション『津山三十人殺し』を読んだ。


 筑波昭 著『津山三十人殺し〜日本犯罪史上空前の惨劇』(昭和56(1981)年刊行、文庫版初版は平成17(2005)年)を読んだ。

 昭和13(1938)年5月21日未明に、岡山県西加茂村(当時)で起きた、30人が惨殺された事件についてのノンフィクションだ。
 横溝正史の小説『八つ墓村』に出てくる事件のモデルにもなったので、犯罪史上、わりと有名な事件だろう。
 学生服にゲートル、地下足袋。頭に巻いた鉢巻には、懐中電灯を鬼のツノのように2本挿し、腰には日本刀や匕首を下げ、手には猟銃を持ち、暗闇に沈んだ村の家々を回って、驚き怯える村人たちを、次々に殺していく…。

 犯人の都井睦雄(当時22歳)は、今で言うニートだった。
 甘やかされて育ち、大人になってからも『少年倶楽部』など子供向けの雑誌などを好んで読み、昭和11年に起きた安部定事件など猟奇的な事件に異様な関心を持ち…という、まるで、たとえば宮崎勤 元死刑囚のような人だ。(と、私には見えた)

 同時に、都井は自分が結核に侵されていると思い込んでいたため、
「俺はどうせ死ぬんだ。だから多くの人を道連れに」
「他のヤツらも、不幸になればいい」
みたいな、自分勝手な理由も見え隠れする。(ように、私には感じられた)
 宅間守 元死刑囚や、今月1日に大阪市で起きた、小川和弘容疑者による個室ビデオ店放火事件などを思い出す。

 また、当時の社会背景として、2.26事件(昭和11年)、日中戦争(昭和12年〜)など、殺伐として、かつ閉塞感のある世相だったこともあるようだ。
 レベルは全然違うが、現在の、格差固定化社会や、いわゆる「不機嫌な職場」や、「金儲けがすべて」「勝ち組・負け組」みたいな、競争がきびしく、殺伐として閉塞的な世相と似ている気がする。

 加えて、同書には、安部定事件についての、当時のマスコミ報道なども掲載されているが、
「捕まった時には、所持金は○○円だった」
など、どうでもいい?詳細についてまで書かれていたり、警察調書が流出・流布するなど、メディアは違う(紙媒体とテレビやネットなど)ものの、現在の過剰報道を彷彿とさせる。

 一時期、ワーキングプアや日雇い派遣が問題になっていたころ、小林多喜二のプロレタリア文学小説『蟹工船』(昭和4年刊)が、にわかにブーム?になっていたそうだ。
(私も書店で、いくつかの『マンガで読む文学小説』が平積みになっており、そのなかで蟹工船だけが減っているのを見たことがある)

 なんだか、イヤな世の中になってきたなあ…。(汗)
posted by 田北知見 at 17:31 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(1) | よいこの読書感想文

2008年02月20日

臓器売買について。




 以前、読んだ、アメリカの翻訳小説に、臓器売買のことが書いてあった。
(フィクションだけど、現実に、似たようなことはあるんだと思う)

 その小説は、アメリカとメキシコの間を、中古車売買のビジネスで行き来している、あやしい業者を、警察が追う…みたいなストーリーだった。
 自動車のどこかに、たぶん麻薬を隠していると見込んで、捜査が進むのだが、密売していたのは、実は臓器だった。

 アメリカの「業者」が、メキシコで行なう「商品の仕入れ」について、要旨、次のように描写されていた。

 どこでもいい、メキシコ国内の、貧しそうな寒村へ、バンで乗りつける。
 そして「商品提供者」に、バンの荷台で「簡単な手術」を施し、臓器を取り出す。
 「商品の代金」は100米ドルだ。
 医療も満足に受けられない(田舎だし、貧しいから)提供者が、その後、「手術」の傷が悪化して死のうが、業者は知ったこっちゃない。
 「商品」はアイスボックスに氷やドライアイスとともに詰められ、「新鮮なうちに」アメリカ国内へ運ばれる。
 そこで別の「業者」へ「卸す」。

 うわ…こうして書いてるだけで、気分悪くなってきた…。ぎぼぢわるい…。
posted by 田北知見 at 17:18 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年10月11日

「歴史=戦争」…と、思いたくはないのだが…

 古川薫の『毛利元就とその時代』を読んだ。
 (古川先生は、山口県下関市ご出身の歴史作家。)
 毛利元就の生涯や、当時の中国地方の状況、他の戦国武将や守護大名のことなどを説明・解説した本だ。

 元就が生きた時代(1497年〜1571年)は、ちょうど戦国時代初期〜中期だ。

 なので、元就の人生は、
 家中に対しては、「中世の豪族」から「戦国大名」への脱皮が必要であり、
 (たとえば、歴史を平安時代にまで遡る大内氏は、ものすごく大雑把にいうと、「お公家風」から脱皮できずに滅亡した)
 外に対して、つまり、近隣の守護大名や戦国大名とは、絶え間ない、戦さ&権謀術数の人生だった。
 (たとえば、山陰の尼子氏や、山口と北九州を領有し、海外貿易などで莫大な利益を上げて栄華を極めた大内氏、大分を本拠として北部九州に覇を称えた大友氏など)

 戦いの連続の人生。
 読んでるだけで、お腹イッパイになる。(笑)

 戦国大名(武将)のなかでは、好きな人物の1人ではあるが。

 やはり私は、
 織田信長みたいな、触れると手が切れそうな戦国大名や、
 加藤清正みたいな、イケイケ武闘派の武将よりも、
 元就や徳川家康伊達政宗のような、ジックリ・しぶとく戦国を勝ち抜くタイプの大名や、
 明智光秀のような、文化系の智将が好きだ。
 (でも、石田三成くらいまで文化系すぎると、カンリョーっぽくてイヤかも?(笑))

 そういえば、毛利元就と伊達政宗って、好対照ですよね。
 元就は、本州の西端に覇を称え、生まれる時期がちょっと早かったため、天下取り争いに加われなかった。
 正宗は、本州の東端に覇を称え、生まれる時期がちょっと遅かったため、天下取り争いに加われなかった。

■日本の歴史も、海外の歴史も…

 司馬遼太郎の短編小説集『一夜官女』を読んだ。
 戦国武将と女性の関わりとか、忍者ものとかが収録されている。
 戦さとか、忍者どうしの闘い(殺し合い)とか、いっぱい出てくる。

 青池保子のマンガ『アルカサル −王城−』最終巻を読んだ。
(あっ、青池先生も、山口県下関市のご出身だ)
 14世紀のカスティーリャ(スペイン)を舞台に、実在の王の人生を描いた作品だ。
 身内どうしの王権争い、国内の諸勢力との戦争と権謀術数、周辺諸国の内政干渉と侵略。

 こっちも、読んでるだけでお腹イッパイになる。

 よく、
「人類の歴史は、戦争の歴史」
というけど……、そう思いたくはないのだが…。
posted by 田北知見 at 16:58 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年08月28日

『世界同時中継! 朝まで生テロリスト?』と、
『最後の生贄』を読んだ。

 先週末、おもしろい本を何冊か読んだ。

 とくにおもしろかったのは、
・ボリス・ジョンソン『世界同時中継! 朝まで生テロリスト?』(高月園子 訳)
・ケヴィン・オブライエン『最後の生贄』(矢沢聖子 訳)
・安野モヨコ『働きマン』4巻。

■深刻、かつ、お笑いテイストの『朝まで生テロリスト?』

 『朝まで生テロリスト?』は、イギリスのロンドンが舞台で、アメリカ大統領の来英に際し、中東系の人たちがテロを計画・実行して…というストーリー。

 サスペンスフルで深刻な内容だが、全体的にはお笑いテイストだ。

 キャラクターも、かなりデフォルメされているが、
「ああ…、こういう人、いるんだろうな」
と思わせる。

 ことなかれのイギリス人国会議員。
 野心あふれる美人のアメリカ人アシスタント。
 どんな時にも、何よりも「アメリカの国民にどう見えるか」を気にするアメリカ大統領。

 子供の時に、白人の養父から「頭の悪い黒んぼ」と罵られ、それだけが原因ではないが、それもきっかけのひとつとなってテロリストになった男の子。
 テロ行為によって、すばらしい死後の世界が待っていると信じている、中東系のテロリストたち。

 イラクに派兵された経験から、ちょっとおかしくなっちゃったアメリカ人兵士。

 事件に巻き込まれたセルビア人(たぶん、移民か難民としてイギリスに住んで働いている)は、助けを求めようとして、アルバニア人(これも移民か難民)に遭遇。逆に殺されそう(?)になったり。(背景に、コソボ紛争による両民族の確執があると思われる)

 笑えるし、でも涙なしには読めないところもあるし。
 しかもテロ・サスペンスだから、ノンストップだ。

■いろんな意味で恐ろしい『最後の生贄』

 『最後の生贄』の舞台は、アメリカのオレゴン州北部〜ワシントン州南部。
 主人公は30代の女性で、兄が上院議員に立候補しており、その選挙活動の手伝いをしている。
 約20年前の高校時代に、忌まわしい事故(事件)があった。関係者は全員、その記憶を封印していたのだが、今になって再び…というストーリーだ。

 これもノンストップ・サスペンス。これでもか、というくらい、どんでん返しに次ぐどんでん返しだ。
 そして、やはりいろいろなキャラクターが出てくるのだが、それぞれ、かなりリアルにえがかれている。

 議員に立候補した、主人公の兄と、周囲の一部の人たちには、私は、
「コイツら、アタマおかしいよ」
と思ったが、しかし一方で、
「本人と周囲が、これくらいの人じゃないと、アメリカでは政治家は務まらない(のし上がって行けない)のかも」
とも思った。
 イヤハヤ。殺人鬼より、よほどゾッとする。

■パノラマ式小説

 以上の2冊は、いわゆるパノラマ式というのだろうか、いろんな登場人物の視点からえがかれるタイプの小説だ。(対極は、主人公の視点から、一人称で書かれる私小説とか)

 私はわりかし、主人公の視点でずっと書かれていて、主人公との一体感が味わえるタイプの小説が好きなのだが、パノラマ式でも、それぞれのキャラがシッカリえがかれていれば、そしておもしろければ、オッケーだ。

 以前、読んだ本では、
・ロバート・フェリーニョ『チェシャ・ムーン』(深井祐美子 訳)
・ジェイムズ・W・ホール『大密林』『豪華客船のテロリスト』(いずれも北沢和彦 訳)
とかが、おもしろかった。
posted by 田北知見 at 17:50 | 東京 🌁 | Comment(1) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年08月21日

猫村さん、うちにも来てくれないかな…。

 今頃なのだが、ほしよりこ(←作者名)のマンガ『きょうの猫村さん』に、ハマっている。

 以前、一時期、話題になり、単行本はベストセラーになったのだが、私はどうも、ハヤリものには抵抗があって、読んでいなかったのだ。

 読んだ感想。
 この作品を読んだ人の、多くが思ったであろうことと、同じことを、私も思った。
「猫村さん、うちにも来てくれないかな…」

 ご存知ないかたのために説明すると、猫村さんは、猫なのだが、掃除、洗濯、炊事、買い物、アイロンかけ、などなど、すべての家事ができる。

 家政婦として働いている。『村田家政婦紹介所』に所属(?)していて、いまは、お金持ちのおうち、犬神家に、『村田家政婦』から、通いで派遣されている。

 家事ができるうえに、ほのぼの、癒やし系のヒト(猫)だ。

 しかも、猫だから、たぶん、さわるとフカフカ。
 猫村さんは、時々、家政婦仲間や、派遣先の奥様に、マッサージとかも、してあげている。
 ああ、私も、あのぷにぷにの肉球で、足ツボをギュッ、ギュッ、とか、押してもらいたい。

 …と書くと、かなりアブない人だと思われそうだが、『きょうの猫村さん』を読んだことのあるかたは、
「うんうん、わかるわかる」
と思ってくださるに違いない。…たぶん…。
posted by 田北知見 at 16:33 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年07月31日

マンガ『アンラッキーヤングメン』を読んで

 マンガ『アンラッキーヤングメン』(原作:大塚英志/マンガ:藤原カムイ)を読んだ。

 舞台の中心は、1968(昭和43)年の東京。
 3億円事件を軸に、主人公の男女3人を中心とした、若者たちのドラマ(?)だ。

 読んでいて、
「あー、このキャラクターは、実在の、あの人物がたぶんモデルだな」
と思う登場人物がたくさん出てくる。
 その人物とは、たとえば、北野武(ビートたけし)、永山則夫永田洋子、三島由紀夫、奥崎謙三などなど。
 あと、当時、3億円事件の容疑者としてマークされ、自殺した「S少年」とか。(未成年だったので、当時のマスコミも、本名を出さず「S少年」と表記していたらしい)

 そして、3億円事件や東大安田講堂事件のほか、
「あー、このシーンは、実際にあった、あの事件がたぶんモデルだな」
と思うシーンもある。
 連続ピストル射殺事件、「ヤマザキ、天皇を撃て!」事件よど号ハイジャック事件山岳ベース事件などなど。

■ストーリーについて

 大塚英志の作品は、『北神伝綺』(マンガ:森美夏)を読んだことがある。あの作品も、やはり、登場人物・事件ともに、史実・虚実とりまぜて書かれていた。
(舞台となった時代は違うし、内容も、『北神…』のほうは超常現象が入ってるけど)

 その、とりまぜ具合いが絶妙で、かつ、マンガ(ドラマ)としてもよくできている。というのは、両著に共通するところだと思った。

■絵について

藤原カムイって、こんな絵だっけ?」
と思ったら、やはり、わざと60年代風に絵柄を変えて描いたそうだ。

 藤原氏のあとがきには、当時、『ガロ』とかで描いてた漫画家さんの名前がいくつか出ていた。彼らの絵柄を意識したそうだ。
 私は彼らの作品を読んだことがないので、それは分からないが、たとえば村上一夫とか、当時のマンガを髣髴とさせるなあ、とは思った。
 絵柄だけでなく、画面の黒っぽいカンジとか、コマ割りや絵の構図とかも。

■装丁について

 私は純粋の本好きではなく、つまり、書籍そのものを愛しているわけではなく、「読んで楽しむ」ことが好きなだけなので、ふだんは装丁なんて、まず気にしない。
 しかし、書店で平積みになっているこの本の表紙を見た時、
「ハッ」
としてしまった。いやホントに。
 有名な祖父江慎によるものだった。

■学生運動について

 私は歴史好きで、一時期、昭和史に凝ったりしたのだが、学生運動のあたりは興味がないのでノータッチだった。
 このマンガを読んで、基本的なことぐらい知りたいと思い、ちょっと調べてみた。(といっても、ネットで検索した程度)
 その悲惨さに、気分が暗くなった。とくに山岳ベース事件とか。マジで気分が悪くなった。
posted by 田北知見 at 18:13 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年07月09日

村上春樹の紀行文を再読して

 『キッチンカブー』無料ページの『企業・ウオッチング』7月9日更新分(毎週月曜朝更新)にも書かせていただいた、ノートパソコン関連のサイト。
 『原始人ブログ』は、最終回を迎えてしまった。もう更新はないのだと思うと、ちょっとさみしい。(笑)
 一方、ゴルゴ13が出てくる『ウルトラライト』サイトのほうは、まだ次の更新があるようだ。ヨカッタ。

 『キッチンカブー』の有料ページ『カブーフレンズ』の『トレンド・ウオッチング』7月9日更新分(毎週月曜朝更新)でも、ちょっと触れたが、最近、椎名誠と村上春樹の旅行記を再読している。

 トレンド・ウオッチングでは書かなかった、村上春樹の紀行文について、ここで少し、書かせていただく。
 たとえば、ギリシャ、トルコ紀行の『雨天炎天』、メキシコやノモンハン紀行などが収録された『辺境・近境』などだ。

■途上国における欧米人の態度、みたいな…?

 村上春樹の紀行文を読むと、ちょっと欧米人の書いた紀行文を思い出す。(といっても、そんなにたくさん読んだことはないけど)

 情景や事実を羅列するだけでなく、それに対する感想や、それらの背景にある、形而上的な意味のようなことにまで、踏み込んで思索・言及する。
 ある時は、真摯に。
 ある時は、ユーモアをまじえて。(←とくにココの部分が、欧米的。)
 そしてその態度は、異文化に対してフェアであろうとはするのだが、一方で、「でも自分の価値観としては、それはないんじゃないかと思う」といった指摘も抜かりなく行なう。

 …うーん…。うまく表現できないなあ…。

 私が最近読んだ小説でいうと、チャールズ・ベノー著『レッド・ダイヤモンド・チェイス』(坂口玲子 訳)とか、パトリック・ウッドロウ著『南海のトレジャーハント』(熊谷千寿 訳)の主人公みたいな。(イヤ、この例えは強引すぎるか…(笑))

 中東だろうと、東南アジアの南海だろうと、アフリカだろうと、どんな所へ行っても、「郷に入っては郷に従え」を実践しつつも、それでいて、
「自分はアメリカ人なんだ」とか、(前者の作品の主人公はアメリカ人)
「どこにいても、イギリスの、自分の出身地や、地元の周囲の人を大事に思っている」(後者の作品の主人公はイギリス人)
つまり、自分のルーツは忘れないというか。

 現地の人と、真摯に対等にまじわりつつも、どこか一定の距離を置いて眺めているというか。

 …うーん…。ますます何を書いてるのか、わからなくなってきた…。

 ああいうのは、白人特有の、あるいは、村上春樹のように、アメリカナイズされた(と、私には見える)日本人特有の態度なのだろうか…?

 知らない場所へ、気後れせずにドシドシと行き、現地・現地人のやり方に順応しつつも、それでいて、自国の文化ややり方は曲げない。

 そういう情景を、紀行文や小説で読んでいると、むかしのヨーロッパ人たちが、
「南北アメリカや、オーストラリア、ニュージーランドなどの『新大陸発見』」
や、
「暗黒大陸アフリカの『奥地探検』」
などを行なった時も、こういう感じだったんだろうなあ、と思う。

 …たぶん、私の言いたいこと、うまく伝わってないですね…。すみません…。
posted by 田北知見 at 17:00 | 東京 ☁ | Comment(1) | TrackBack(1) | よいこの読書感想文

2007年06月20日

コメントについてのコメント(←?)

 時々、このブログへのコメントをいただく。
 まずは、お礼を申し上げます。ありがとうございます。

 本当は、1つひとつにお礼やお返事を書かなければならないのだが、いくつかの理由から、それは失礼させていただいている。

 理由の1つは、このブログ、私の親戚筋や友人知人が読んでくださっているらしいので。(笑)
 コメントが、もし、そうした人たちからだったら、それに対するお返事を書くというのは、なんとなく照れくさい。
 というわけで、いつも、失礼させていただいている。

■コメントに、身が引き締まる

 いただくコメントは、それぞれ、ハンドルネームが違うので、違う方なのだろうが、いつも、「同じ方なのかも?」と、思ってしまう。
 共通点があるからだ。
 文章は長めで、内容が知的なこと。それでいて、どこかユーモアや余裕が感じられること。そして、どことなく謙虚で、腰が低い感じ。

 そういう、賢明な方々に読んでいただいている、と思うと、うれしいし、身が引き締まる思いだ。
 いつも、コメントをいただくと、そう感じる。

■コメントに対するコメント

 ところで、きょうは禁を破って(?)コメントに対するコメントを。
(本当は、ここではなくて、コメントのトコロに入れるべきなのでしょうが、あえて、ここに入れます)

 幸村誠が、歴史ものを!?
 教えてくださって、ありがとうございます。

 以前、『週刊モーニング』を毎週読んでいた時、幸村氏の『プラネテス』が時々出ていて、「おもしろいな」と思って読んでいました。
 その幸村氏の歴史もの。早速、取り寄せて読みます。

 私が、プラネテスをおもしろいと思った理由は、SFだけど、「人間」や、「人間ドラマ」が、えがかれていたからです。
(その点、現在、『ビッグコミック』誌に時々載っている、岡崎二郎の『宇宙家族ノベヤマ』なんかも、最初のころは、そうでした。今は少し、「家族」や「人間ドラマ」よりも、「サイエンス・フィクション」面や「文明」をえがくほうへ、軸足が移っているように見えますが)

 それで、実感したのです。舞台が未来でも過去でも宇宙でも、「人間」や「人間ドラマ」が、えがかれている作品は、おもしろい。(少なくとも、私には)
 井上雄彦の『バガボンド』。
 『ヒストリエ』をはじめとした、岩明均の歴史マンガ。
 惣領冬実の『チェーザレ』。
 高瀬理恵の『公家侍秘録』。
――などなど。

 上記のような、質の良い歴史・時代マンガって、なかなかお目にかかれずに、いつも、
「ええマンガ、ねぇが〜」(←なぜか、なまはげになっている)
と、探しているのです。
posted by 田北知見 at 15:37 | 東京 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年06月19日

まだまだ、あなどっていた。ごめん。北海道。

 講談社学術文庫『エゾの歴史 〜北の人びと と「日本」』(海保嶺夫 著)を読んだ。

 おもに、北海道を中心とした、エゾとエミシの歴史について書かれている。

 以前、このブログの「東京≠中央」でも書いたが、北海道は、日本だけの地図で見ると、最北端なのだが、世界地図で見ると、そうでもない。どころか、「北方民族」や、「オホーツク文化」という観点で見ると、最南端だ。

 また、「内地」(本州など)が弥生時代に入り、稲作を始めてからも、北海道と東北地方の一部では、続縄文期が続いていた。
 しかしこれは、文化的に「後れていた」わけではなく、気候・植生・自然環境その他が、稲作よりも、狩猟・採集生活に適していたからだ。

 15世紀には、「中央」(足利政権)とは別に、「夷千島王」の使いと名乗る一団が、朝鮮に来たとか。
 この「王」は誰か。
 いろいろな説があるが、東北地方(現 青森県・秋田県の日本海側)に拠っていた安東氏ではないかとの説が有力だ。
 また、同じ時代の朝鮮には、平泉(現 岩手県=奥州藤原氏)との交易の記録もあり、東北政権が独自に貿易をしていたことが判明している。

 などと、分かってはいたのだが、上記の本を読んで、まだまだ「北の人々」を、あなどっていたことが判明した(笑)。

■アイヌの、逆「元寇」

 アイヌの人びとは、船で、あるいは凍った樺太(サハリン)経由で移動し、現在のロシア沿海州や中国東北部、カムチャツカの各地・各民族と交易をしていた。それも、古代から、江戸時代中期ごろまで。

 また、時代が前後するが、アイヌの人びとは、13世紀には、樺太などを舞台に、元(モンゴル)軍と、戦さもやったそうだ。それも、数十年にわたって、断続的に。
 同じく13世紀に、九州へ襲来した「元寇」とは逆に、アイヌのほうが打って出る戦さだったらしい。
 アイヌが、樺太などに住む、ギリヤークやウィルタといった民族を侵略し、地元民は「宗主国」の元に助けを求め、元軍が出張って来て戦さとなった。
 最後はどっちが勝ったというよりも、和睦したらしい。
 中国の書物『元史』などに記録が残っているそうだ。

 などということは、この本を読んで、初めて知った。
 ごめん、北海道さん、まだまだあなどっていたよ。と、申し訳ない気持ち(?)になった。

 関係ないけど、洞爺湖サミット、がんばってね、北海道さん。
posted by 田北知見 at 15:53 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年05月30日

吉田秋生のマンガ『海街diary』を読んだ。

 吉田秋生のマンガ『海街diary 1 蝉しぐれのやむ頃』を読んだ。

 私は中高生のころ、吉田氏の『カリフォルニア物語』からのファンだ。

 初期の短編を含めて、ほぼ全作品を読んでいるが、どれも名作で、ハズレがない。

 そして何より、彼女の作品の、男らしいところが好きだ(笑)。

■本物の海が見たくなった

 『海街…』は、神奈川県鎌倉市をおもな舞台にした、4人姉妹のお話だ。

 湘南の海。
 路面を走る、江ノ島電鉄。
 古い神社やお寺。
 山や「谷」。
 ここでは、「谷」は「やつ」とか「やと」と読む。山や丘陵地に切れ込んだ、周りを木々に囲まれたような場所を指すようだ。

 私もあのあたり、何度か行ったことがある。

 海があって、浜があって、道があって、すぐに山が(といっても低い山)が迫っている。
 海のすぐ近くまで、家とかが建っている。
 島や入り江。
 崖や土の色は、オレンジ色に近い茶色。
 歴史のある神社やお寺がたくさん、町なかに、ふつうにある。
 どことなく温暖な気候と、静かな町並み。

 私が生まれ育った、山口県下関市に、ちょっと似てるんだ。それで好きなのだ。

 吉田秋生のマンガ読んだら、海を見たくなった。
 東京の、グレーのビルが立ち並ぶ、コンクリートで固められた港や、人工の浜じゃなくて、ちゃんとした、本物の海。
posted by 田北知見 at 16:09 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年05月17日

『ペルセポリス』は、イラン女性の作品だけど

 『カンヌ国際映画祭』が16日、フランスのカンヌで始まった。今回は、60回目を迎えたそうだ。

 コンペティション部門の出品作品のなかに、アニメ作品『ペルセポリス』(イラン、フランス)がある。
 これについて書く。

■描かれているのは、イラン人の女性だけれど

 原作は、イラン出身で、現在はフランスでイラストレーターなどの仕事をしている、マルジャン・サトラピのコミックだ。
 サトラピは、映画では、ヴァンサン・パロノーとともに、監督を務めている。

 『ペルセポリス』は、サトラピ自身の経験を、独特の絵柄とセンスで描いている。
 日本のマンガとも違う。アメリカン・コミックとも違う。ヨーロッパ風の洗練されたイラストレーションとも違う。
 独特のペンタッチと、シンプルな線で構成された、どことなくかわいい絵柄と、黒っぽい画面は、やはり、私には、「イラン」をイメージさせる。

 この作品については、以前、このブログの2006年8月15日付け『いまだに、戦争が、』で書いた。

 1巻の『イランの少女マルジ』には、イランで少女時代をすごした、サトラピ自身の経験が描かれている。
 戦争や「革命」の悲惨さ、恐ろしさが伝わってくる。
 描かれているのは、1970〜80年代の、イラン・イラク戦争や、イラン革命だ。が、そこに描かれていること(たとえば、人権蹂躙とか)は、今のイランやイラクと、あまり変わらないように見える。そして、戦前〜戦中の日本とも。

 2巻の『マルジ、故郷に帰る』では、マルジは、ヨーロッパに1人で留学し、異邦人として、孤独と挫折を経験する。一度、イランに戻るのだが、イスラム国の窮屈さ、理不尽さに、やはり向いていないと実感し、再びヨーロッパへ旅立つ。
 中東、イスラムという、自分自身のルーツは大切にしつつも、やはり、自由と自立への希求を、已むことはできない。という気持ちが伝わってくる。

 そこに描かれているのは、イラン人の女性だが、
「ああ、わかるわかる、私も……」
と思う箇所が、たくさんある。


posted by 田北知見 at 17:08 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年05月10日

源氏物語の女性群像

 きら(←作者名)のマンガ『GENJI −源氏物語−』を読んだ。

 デビュー直後の作品『まっすぐにいこう。』からの、きら のファンで、ほぼ全作品を読んでいるのだが、源氏物語は興味がないので、これだけは読んでいなかった。

「源氏物語って、プレイボーイ(←死語か?w)が、女性をとっかえひっかえする話でしょ? 誰が読みたいものか」
と、思っていた(笑)。

 平安時代って、なよなよしたイメージで、あんまり興味がないし。
 やはり、ロマンと野趣あふれる古代・上古や、質実剛健 鎌倉時代や、シックな侘び寂びの室町時代や、風雲急の戦国時代、維新回天の幕末、とかのほうがおもしろいし、興味は尽きない。

 きら の『GENJI』は、現代女性好みに脚色されているので、わりかし読みやすかった。なんか、光源氏、結構いいヤツに脚色されてるし。

 それと、古典や歴史もののマンガに多い、「あらすじや解説に、コマ割りの絵がついてるだけ」という作品とは、一線を画している。ちゃんと、人間ドラマになっている。

■なぜ女性がプレイボーイの話を書いたか

 私はずっと、
「紫式部、女性のくせに、なんであんな、男に都合のいい話を書いたんだよ」
と思っていた(笑)。
(もちろん、そういう時代だったというのは、解っている上で)

 その理由のひとつは、彼女の雇い主である中宮 彰子(といっても実質的な雇い主は、彰子の父 藤原道長だろうが)のほうへ、一条帝のお渡りを促すために書かれたものだからだろう。

 もうひとつ、私が思ったのは、紫式部は、フィクションで、自分の理想の男性をえがきたかったのではないか。
 イケメンで、身分が高く、教養にあふれ、頭が切れて、もののあはれに通暁していて。って、そんなカンペキな男性、おるかい!?と、ツッコミたくなりませんか?(笑) 私だけですか…?(笑)

 また、紫式部は、いろいろなタイプの女性をえがき、いろいろな女性の生きざまを、えがきたかったのではないか。
 そうして、物語をつうじて、読む人に、女性の生き方を考えさせたかったのではないか。と思ったりした。

■源氏物語、どのキャラが好き?

 源氏物語というと、よく、
「どの登場人物が好きか」
みたいな話になる。

 私は原典を読んでいないので、何とも言えないけど、
マンガ『GENJI』を読んだ限りでは――、

 【葵の上】かな。
 光源氏の最初の正妻。プライドが高くて、気の強いところが好きだ。強がりが、かわいいし、あわれでもある。

 そして、【朧月夜】。
 彼女も、美人で、気が強くて、好きだ。
 朱雀帝の寵愛をガッツリ掴みつつ、光源氏とも浮名を流し。しかも、遊びだと割り切って楽しんでいる。そして、何だかんだいって、自分の意志を通している。理想的かも。

 あとは、【空蝉】。
 光源氏と、一夜限りの契りで、姿を消す。フラれる前に、振る。いいねえ、その潔さ。と思ったが、はっ、でも、もしかして……、男性にとっては「都合のいい女」?

 いや、究極の「都合のいい女」はむしろ、【夕顔】かな?
 ひたすら受け身。そして、光源氏から、まだ惜しまれているうちに、死んでしまう。
 私はそういう、なよなよした人は、あまり好きではないけど(笑)。夕顔は、美人薄命の代名詞?みたいになってるらしい。

■【紫の上】は「負け犬」か

 以前読んだ、酒井順子の対談集『先達の御意見』では、瀬戸内寂聴との対談で、源氏物語が取り上げられていた。

 その対談は、ちょうど、酒井氏の著書『負け犬の遠吠え』が話題になっていたころに行なわれたらしく、瀬戸内氏は、
「究極の勝ち犬は、【藤壺】」
「【紫の上】こそが、負け犬」
と断じていて、私はビックリした憶えがある。

 【藤壺】は、桐壺帝の寵愛を一身に(つまり、他の多くの妻たちをさしおいてw)受けつつ、桐壺帝と、亡き桐壺更衣との息子である、光源氏とも逢瀬を。
 つまり、現代のメロドラマ風にいうと、彼女は、地位も経済力もある男性の正妻の立場を守りつつ、義理の息子である、先妻のイケメン息子とも不倫をして…みたいな感じか(笑)。

 そして、藤壺は、自分と光源氏との間に生まれた子どもを、世間には、のうのうと桐壺帝の息子としてとおし、光源氏の力も利用して、まんまと息子を帝位につける(冷泉帝)。
 確かに…究極の勝ち犬だ。

 一方、【紫の上】は、子供の時に光源氏に引き取られて、光源氏好みに育てられ、その後、今風にいうと事実婚の妻になった、とされている女性だ。

 光源氏とずっと一緒に暮らし、彼のたくさんの妻やガールフレンドのなかでは、かなり長期にわたって一緒にいた人で、一般的には、勝ち犬だと思われているはず。

 きら の『GENJI』でも、脚色されているとはいえ、紫の上は、光源氏に、最初から最後まで、とても大事にされている。

 しかし瀬戸内氏は、
「紫の上は、光源氏の子供を生んでいない」
「出家(当時、女性が男性との関係の懊悩を断ち切るには、これしかなかった)をさせてもらえなかった」
「最後まで、(他の女性たちへの嫉妬などで)心の平安を得られなかった」
という理由で、紫の上を負け犬だと断じているのだ。

「そおか…。男女道は、奥が深いのだなあ……」
と、その道の入口にすら立ったことのない私は、ため息をつくばかりである(笑)。
posted by 田北知見 at 14:35 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年05月09日

ジョー・R・ランズデールの小説
『サンセット・ヒート』を読んだ。

 先日、ジョー・R・ランズデールの小説 『サンセット・ヒート』 (北野寿美枝 訳)を読んだ。

 ゴールデンウィークのうちの1日かけて、一気に読んだ。
 というか、そうするつもりはなかったのだが、題名どおり、ストーリーも読み手も、ヒートアップしてしまい、ノンストップで読んでしまった。
 ハードカバーを、一気読み。ぜいたくな時間の使い方だ、と思った。(←そんなことで「ぜいたく」言うな、と笑われそうだが…w)

■ミス・サンセットと、ハップ&レナード シリーズ

 小説の舞台は、1930年代のアメリカ・テキサス州。
 主人公は、タフな赤毛美人、通称「サンセット」。

 ミステリーというか、サスペンスというか、ウェスタンというか、セックス・アンド・バイオレンスというか…。まあ、そんな感じの小説だ。
 とにかく荒っぽい土地柄、女性と黒人には人権が全く無い時代を背景に、殺人あり(多数)、殴り合いなどの暴力シーンあり(多数)、ケモノ並みの本能ムキダシ男女間のいろいろがあり…。まあ、そんな感じの話だ。

 私はそういう小説は好まないので、普通ほとんど読まない。
 でも、ランズデールの作品なので、読んでみた。

 ランズデールの、『罪深き誘惑のマンボ』をはじめとした、ハップ・コリンズ & レナード・パイン(←主人公と、その相棒の名前)シリーズが、すごく好きなので。
 これは現代ものなのだが、やはり、すごく暴力的で、すごくお下劣、エログロ、ゲロゲロな小説シリーズだ。また、「政治的に正しくない」ジョークが、バンバン出てくる。そして、かなり笑える。
(ランズデール作品はほかにもあるが、私の好みではなさそうなので、読んでいない)

■主人公への好感と共感


 上記のシリーズと、『サンセット・ヒート』に共通する、いくつかの点がある。そこが、私は気に入った。

 ひとつは、登場人物が平等に悲惨な点。

 たとえば、女性や黒人がバカにされ、ものすごく侮辱されたり、酷い目に遭うシーンが、バンバンえがかれているのだが、だからといって、白人男性の登場人物が優遇されているかというと、そうではない。彼らも、貧困にあえいでいたり、きつい肉体労働で過酷な目に遭ったりしている。
 そうしたことに無縁の、いわゆる勝ち組の白人男性は、ほとんど出てこない。

 もうひとつは、主人公に好感と共感が持てる点だ。

 サンセットは、私から見れば、ある面では、ものすごく頭が悪い。(自分のことは棚に上げて言いますが…)
 私から見ると、
「なんでDV(ドメスティック・バイオレンス)夫の言いなりになってたんだよ…?」
とか、
「なんでそんな、顔がいいだけの男に、簡単に騙されるんだ…?」
と、歯がみする思いだ。

 でも、本人なりに、すごく一生懸命なのだ。ストーリーを追うごとに、強くなっていくし。
 冒頭、サンセットが、DV夫を撃ち殺すところから話は始まる。
 その後、別の男が彼女を殴りそうになった時、彼女は銃を構えて、
「もう二度と、男に殴らせるつもりはないのよ」
と言う。
 カッコ悪いのだが、カッコいい。そういうところに、好感と共感が持てるのだ。

 一方、ハップは。

 白人男性だが、客観的には、完全に負け組だ。
 いい歳をして(確か40代)、手に職どころか、定職にすら就いていない。女性にもあまりモテない。腕っぷしだけは強くて、銃の腕はそうとうだ。ケンカっぱやくて、何かというと乱闘になってしまう。

 でも、基本的には、すごくいい人なのだ。
 困っている人を救おうとしたり。(そのせいで揉め事に巻き込まれ、ストーリーが展開していく、というパターンも多い)
 女性にフラれても、「あ、いやあ、そんな予感はしてたんだ」みたいな感じ。

 相棒のレナードから、
「おまえは、うっかり虫を踏んづけたとしても、罪悪感を覚えるタイプだよな」
みたいなことを言われて、よく、からかわれている。

 そして、サンセットもハップも、基本的には、いい人なのだが、必要に迫られて(?)、一生懸命、闘っている。しぶとくて、タフ。良くも悪くも、アメリカ的。
 そこが好きだ。
posted by 田北知見 at 14:13 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年05月08日

惣領冬実のマンガ『チェーザレ』と
マキャベリズム

 『ダ・ヴィンチ』展を見に行った(きのう7日付け参照)帰りに、書店で、惣領冬実のマンガ『チェーザレ』3巻が出ていることを発見。即買いして読んだ。
 15世紀ルネサンス期のイタリアを舞台に、チェーザレ・ボルジアを主人公としたマンガだ。

 3巻には、ニッコロ・マキャベリが登場した。
(ちなみに、1〜2巻には、レオナルド・ダ・ヴィンチや、クリストバル・コロン(コロンブス)が登場した。)

 1〜2巻を読んだ時、チェーザレの言動から、私は、
「チェーザレは、マキャベリストだったのね」
と思っていた。巻末の参考文献一覧にも、マキャベリの『君主論』が挙がってたし。

 が、3巻を読んで、逆だということに気づいた。
 マキャベリが、チェーザレをモデルに『君主論』を書いたのだった。今回、1〜2巻を読み直したら、巻末の対談に、その旨、記載されていた。気づいてなかった…。

■「マキャベリズムは好かん」と言ったって

 私はマキャベリズムや専制君主制は、全く支持しない。

 でもたとえば、青池保子のマンガ 『アルカサル −王城−』を、読むと――。

 この作品の舞台は、14世紀のイベリア半島。
 レコンキスタ(イスラム教徒からの、キリスト教徒の「国土回復運動」)終結前夜、イスパニア(スペイン)統一直前の、カスティリア王国の、国王ペドロ1世を主人公としたマンガだ。
 当時のカスティリアは、国内の諸勢力の内乱、近隣諸国との紛争・内政干渉、イスラム教国との戦争。まさに、内憂外患である。

 これなんかを読むと、中世からルネサンス期、いや、つい最近の近代まで、強権的な国家(君主)でなければ、国はつぶれる、また、政治家は、権謀術数を用いねば、勝ち残れない、という世界だったのだなあ、ということは解る。

 なので、今の時代に生きる私が、
「マキャベリズムは、好かん」
と言っても、当時の人たちから、
「イヤ、専制君主もおらず、人権が最重視され、立派な政治家が私利私欲を捨て、権謀術数も使わず、理想へ向けて邁進する。そういう世界が望ましいに決まってる。でも、現実としてはね…」
と、ツッコミが入るのだろうなあ。と思ったりもする。

■「異なるものを排除しようとすることに、
  無理があるのだ」


 『チェーザレ』3巻の話に戻る。
 今回の見所は、チェーザレと、フランス人の大男アンリが行なう「闘牛」。(←イヤ、ホントは違うのだが…)

 前回、『チェーザレ』1〜2巻について書いた時(2006年12月25日 『よいこの美術鑑賞』カテゴリ)と同様、やはり今回も、感動と共感を持てるセリフが出てくる。

 キリスト教徒の「矜持」を持つアンリが、ユダヤやイスラムを否定することに対し、チェーザレは、次のようなことを言う。

「宗教が違おうが、人種が違おうが、優れたものは優れている。学んで何が悪い?」
とか。
「もともと、生まれた場所が違えば、人種も宗教も、言葉も異なるのが当然だ。異なるものを排除しようとすることに、無理があるのだ」
とか。

 これは、薄っぺらなヒューマニズムや、浪花節ではない。

 当時の、新しい考え方である、ルネサンス(「文芸復興」のほうじゃなくて、「人文主義」のほう)的な思想を、背景にしていると思われる。

 つまり、中世的な「宗教が何よりも最も高い位置にある」「魔女狩りや俗信に代表される、因循で非合理的」な考え方ではなく、「人間が中心」であり、「科学的、合理的に、物事を見ようよ」という考え方だ。

 また、チェーザレ自身、庶子ということで、因習や、つまらないタテマエに対して、批判的だったのかもしれない。

 しかし、上記のチェーザレの言葉は、21世紀の現代でも、いや、今こそ、世界中の人々が、再認識する必要があるのではないか。とも思う。
posted by 田北知見 at 15:58 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年04月25日

権力のある人ほど、人の痛みを解ってほしい。ってのは望みすぎかな?(笑)

 スコット・トゥローの『死刑判決』(佐藤耕士 訳)を読んだ。
 リーガル・サスペンスだ。

 物語は、ある殺人事件の被告に死刑判決が出て、死刑執行の数ヵ月前の時点から始まる。
 そこから、主人公たちが、それまでの捜査、自白、裁判の不備を、1つひとつ発見してほどいていく。新たな証拠や証言が出てきて……。という話。
 二転三転するストーリーはスリリングで、ワクワクしながら読んだ。
 作者が、もと検事補で、現在、現役の弁護士というだけあって、法理論やリアルな裁判シーンも、読み応えがある。

 結論からいうと、

〈以下、ネタバレ注意〉

 冒頭の「死刑囚」は冤罪だった。
 アメリカの(たぶん日本も含めた他の国も同様だろう)、警察の捜査や、「自白」や、裁判の、杜撰さの一例が、浮き彫りになっており、いろいろ考えさせられる。
 もちろん、人間のやることなので、すべて完璧というわけにはいかない。というのもわかるが。

■冤罪と権力

 それと、昔、警視庁勤務のかたに聞いた話を思い出した。

 当時、冤罪事件が何件か続いて、話題になっていた。それについて、話を振ってみたところ、その人は、要旨、次のように答えた。
「強引な捜査や、暴力による『自白』の強要は、もちろんいけないことだ」
「しかし、行き過ぎてしまう捜査員の気持ちは、同業者として解る」
「たとえば殺人なら、酷い目に遭った被害者の遺体を目の当たりにする。捜査の必要上、遺族や被害者の周囲の人に、何度も会い、何度も話を聞く」
「どうしても、犯人を挙げなければ、と一生懸命になってしまう」

 それは私にも解る。
 残忍な犯罪の報道を見るたびに、「犯人にも、同じ目に遭わせて、被害者が受けた苦痛を味わわせてやればいいのに」と思う。

 しかし一方で、「力」(いわゆる「権力」)を持つ人たちは、それなりの自制心、冷静さ、公正さ、を持つべきだと思う。それができない人は、そういう立場に就くべきではないと私は思う。

 人の痛みには鈍感なくせに、自分が攻撃されたら、怒って大騒ぎをする 安倍首相 人もいるようだが。
posted by 田北知見 at 17:23 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年04月20日

レイモンド・チャンドラーの
『ロング・グッドバイ』(村上春樹 訳)を読んで

 レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(村上春樹 訳)を読んだ。
 1953年に発表された、ハードボイルド小説の古典だ。このほど、村上春樹が新訳版を出したということで、読んでみた。

 村上春樹の文だった。当たり前だけど。もし、「これは村上春樹の小説です」と言われたら、「そうか」と思ったかも、っていうくらい。

 1950年代に、清水俊二が訳したほうの『長いお別れ』と読み比べてみると、ちょっと大げさだけど、まるで違う作品のようだ。
 文の感じが違うし、ところどころ、「もとのテキストが違うのかな?」と思うような箇所すらある。
 村上春樹の「あとがき」によると、清水版では、意図的に、はしょった部分もあるようだ、とのことだった。

■訳者によって、作品のイメージはかなり異なってくるらしい

 訳者によって、雰囲気がぜんぜん違って見える、というのは、これまでも経験したことがある。

 以前、パトリシア・コーンウェルの『検屍官』シリーズが好きで、新作が出るのを待ち構えて読んでいた。
(私が読んだのは、『黒蝿』までだ。好みと少しずれてきたので、読むのをやめた。というか、私の好みが変わったのか。)

 いつも、講談社文庫の相原真理子 訳で読んでいたのだが、ある時、別の人が訳したものを読んだ。日本未訳の短編で、雑誌に掲載されたものだった。
 主人公をはじめとして、シリーズのレギュラー登場人物は、「いつものキャラ」なのだが、なんか違って見えるのだ。どこがどう、と訊かれても答えようがないのだが、違う。なんだか、不思議な感じがした。

 逆のケースもある。別の作家の作品なのに、訳者が同じだったため、両者の作品の雰囲気が似ていると感じたケースだ。

 ジャネット・イヴァノビッチの、『私が愛したリボルバー』を第1作とした、ステファニー・プラム(←主人公の名前)シリーズが私は好きで、毎回、新作を心待ちにして、ずっと読んでいる。扶桑社文庫の、細美遥子 訳のものだ。
 原作がかなり面白いうえに、訳がまた絶妙で、大好きなシリーズのひとつなのだ。

 しかし以前、サラ・ストロマイヤーの『バブルズはご機嫌ななめ』(講談社文庫)を読んで驚いた。
 ステファニー・シリーズと、すごく似てるのだ。
 原作を書いたストロマイヤーが、イヴァノヴィッチに兄事(女性どうしの場合は「姉事」?)しているそうで、「イヴァノヴィッチ風」を意識したということもあるだろう。
 加えて、訳者が細美氏だったため、なおさら、「似てる」と感じたのだと思う。

■なるほど、「古典」だ

 チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の話に戻る。

 私が驚いたのは、主人公の言動や、ストーリー構成が、
「ヴィクやキンジーみたいだ」
と思ったことだ。

 ヴィク(V・I)ウォーショースキーは、サラ・パレツキーの『サマータイム・ブルース』(山本やよい 訳)に始まる、女性探偵シリーズの主人公。
 キンジー・ミルホーンは、スー・グラフトンの『アリバイのA』(嵯峨静江 訳)に始まる、女性探偵シリーズの主人公だ。
 どちらも好きで、私にとっては、生き方の手本(大げさだけど)になった部分もあるような作品群なのだ。

 いや、両方とも1980年代にスタートしたシリーズなので、チャンドラーがぜんぜん先なのだが。

 主人公は、タフで、警察をはじめとした権力を、ものともしない。自分のルール、自分の良心だけに従って行動する。
 独りを好み、群れない。それでいて、人にはいつもフェアで、でもちょっと厳しい。
 悪には敢然と立ち向かう。でも、大げさにではなく、さりげなく。けれども、強い意志を以って。

 ヴィクとキンジーのシリーズだけが影響されたのではなくて、たぶん、チャンドラーのフィリップ・マーロウ(←主人公の名前)シリーズは、その後の「探偵」像と、ハードボイルド小説のあり方を決定づけたのだろう。
 「ハードボイルドの古典」と呼ばれるゆえんだ。

■フィッツジェラルド→チャンドラー→ムラカミ?

 村上はあとがきで、同書を、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』と重ねて見ている。
(私は読んだことがないのでわからない。)

 私はむしろ、「村上作品と重なるなあ」と思う部分があった。
 たとえば、ラスト近くで、主人公が、女性登場人物と、唐突に(と、私には見えた)同衾するところ。しかし、唐突に見えても、実は必然だったりするのだろう。
 村上作品『ノルウェイの森』で、同じようなシーンを見た憶えがある。
posted by 田北知見 at 18:58 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

2007年04月12日

むかし『スローターハウス5』を読んだ時。



 私がカート・ヴォネガットの小説『スローターハウス5』を読んだのは、中学生の時だった。20年以上前の話だ・・・うーむ・・・(笑)。

 ヴォネガットは、米兵としてドイツへ赴任し、捕虜となり、連行されたドレスデンで、アメリカ軍による酷い空爆に遭遇したそうだ。
 その経験による「半自伝的作品」である、とか、専門家がいろいろ指摘するような、作品の背景は何も知らずに読んだ。
 また、村上春樹が、影響を受けた作家のひとりとして挙げている、ということも知らなかった。
 というか、第一、そんなに有名な作品だとは、知らずに読んだのだった。

 作品を読んだ感想は、「よく、わからなかった」。(イヤ、もちろん、内容は理解できたのだが。)
 ただ、主人公の体験した、圧倒的な恐怖と、悲惨な状況、そして、現実を受け入れるしかないという絶望(と、私には思われた)だけが、印象に残っている。

 ああ、また「作家の逝去」→「戦争ネタ」になってしまった・・・。
posted by 田北知見 at 16:33 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(1) | よいこの読書感想文

2007年03月22日

西村京太郎『高知・龍馬 殺人街道』から、
高知旅行ネタに走る。

 西村京太郎の『高知・龍馬 殺人街道』を読んだ。十津川警部もの、私は初めて読んだ。

 驚いた。
 テロ殺人あり、首相の孫 誘拐事件あり、原発へのテロ予告あり、シージャックあり、シージャック船と海保の銃撃戦(というのか?)あり、と、かなりのダイナミズムだ。

 十津川警部ものって、旅情ミステリーというか、もうちょっと、コージーミステリーっぽいんだと思ってた。(もちろん、この作品でも、十津川警部と亀井刑事は高知へ行くが)
 十津川警部って、2時間ドラマでは、橋詰功とか藤田まことが演じてなかったっけ? と思った。
(ちなみにこれは、私の勘違いだった。調べてみたところ、実際は、渡瀬恒彦や萩原健一らが演じている)

 けれども、西村京太郎らしい、抑えた筆致と平易な言葉づかいで書かれているため、何か品格のようなものが感じられる。えがかれていることは殺人や銃撃戦なのだが、どこか安心して読める。さすが、書き手の年季を感じた。
 このシリーズに人気があり、多くの読者に、長く愛読されているのも、わかる気がした。

■ここから強引に、高知旅行ネタに入る。

 で、ここから強引に高知旅行ネタに入る。
 数年前に行った、高知旅行の思い出だ。

 最も印象に残っているのは、やはり桂浜だ。
 波が、2メートルくらいの高さで、ドォン!と砕けるのだ。度肝を抜かれた。

 太平洋って、だいたいそうだと思うが、桂浜もそうだった。手前には荒波。その向こうは、島影のひとつもなく、意外と穏やかそうな、広い海。
 背後は、高く険しい四国山地と、そして上士下士の身分の厳しい高知城下が、肩にのしかかってくるように感じる。

「この海の向こうへ、出るしかないぜよ!」
と、龍馬が思ったのも、むべなるかな、と実感した。

■龍馬ファンには申し訳ないが(笑)、
桂小五郎の手紙に心を打たれた私


 もうひとつ、印象に残っているのは、坂本龍馬記念館だ。

 龍馬の手紙や、京都の近江屋で暗殺された際に、現場にあった、血のついた屏風と掛け軸のレプリカなどが展示されている。

 私は龍馬ファンではないので(龍馬ファンの皆様、すみません)、それよりも、長州の桂小五郎が龍馬に出した手紙が印象に残っている。
 薩長同盟について、龍馬に「くれぐれも、よろしく頼む」と念押ししている手紙なのだが、やたら長いのだ。文が長く、したがって、紙の長さも長い。確か、2メートルくらいの長さだった(笑)。

 短編『逃げの小五郎』などを書いている司馬遼太郎あたりに言わせると、たぶん、「このながい紙に書かれた、くどいほどの念の押しように、桂の小心さが、におい立ってくる」みたいなことになるのだろうが、私はそうは思わない。
 むしろ、桂は、
「坂本くんは、人柄は信頼できるんじゃが、大雑把で野放図なところがあるけえのう…」
「この同盟が失敗すれば、わし1人が腹を切って済む話じゃない。長州藩がつぶれるかどうかの瀬戸際じゃ」
「見っとも無うてもええ。わしは、どねぇ思われても構わん。この同盟が成功すりゃあ、それでええ」
と、必死だったのではないか、と思った。

■老舗料亭の実力

 高知市内で、印象に残っているのは、料亭『得月楼』。
 明治3年創業の老舗で、宮尾登美子の小説『陽暉楼』のモデルになったところだ。というか、実際にこの料亭が昔『陽暉楼』だったらしい。

 旅行出発前から、ネットでじっくりチェックして、「1人でも受けてくれるか」と問い合わせ、電話で予約をした。かなり緊張して行った。
 建物やお庭や盆梅にも圧倒されたのだが、最も「さすがは」と思ったのは、「人」だった。

 昔風にいうと、下足番さん、というのだろうか。半纏を着た、押し出しの立派な年配の男性が、玄関前で迎えてくれた。

 個室で、懐石コースのようなものを頼んだと記憶している。
 まだ寒い時期だったので、障子やふすまは閉めてある。なのに、料理の出てくるタイミングがドンピシャなのだ。
 私は食べるのが遅いほうなのだが、最初の1〜2品は、出てくるのがちょっと早めだったけれど、それ以降は、部屋に隠しカメラでもついているのか? というくらい、ちょうど良いタイミングで次の料理が出てくるのだ。すごい、と思った。
posted by 田北知見 at 17:14 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文

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