2007年06月14日

アフリカ・中東地域の「悪習」について。




 アフリカ・中東地域の、女性の性器切除の「悪習」については、私もいくつか、恐ろしい本を読んだことがある。
 途中で、気分が悪くなって、しばらく読み進めなかったりした。

 私はこの「悪習」について知った時、まず最初に、
「こんな酷いことがあるのか、それもふつうに」
と驚いた。
 次に、その「悪習」がなくならない理由は、おもに男性の都合と、女性の無知ゆえだと知り、怒りを覚えた。


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2007年06月04日

『天安門事件』について

 17年前のきょう、中国・北京で『天安門事件』が起きた。

■天安門事件の起きた年、私は

 事件の起きた1989年、私は日本の福岡で、のんびりと大学生をやっていた。

 天安門事件の報道に接し、
「同じ大学生なのに、ずいぶん違うなあ」
と、彼我の置かれた環境(もちろん、こちらのほうが断然ヌルい)や、志の違いを感じ(もちろん、彼らの志のほうが、断然立派)、
「そういえば、私が生まれたころに、日本でも学生運動が盛んだった。中国はいま、そういう時期を迎えているんだな」
と思った憶えがある。

 ただ、その年、私は3年生で、学内スポーツ紙の編集長をしていた。
 コラムに、
「中国は、日本なんかとは比べ物にならないくらい、長い歴史と深い文明がある」
「いまは一時的に、歴史に逆行しているように見える。が、あの国は、これからも前進すると信じたい」
という内容のことを書いたと記憶している。

■民主化を求めて轢き殺された学生たちの

 その約2年後、1991年3月、私の大学卒業旅行は、中国だった。
 男子3人、女子2人の、同級生5人で、10日ほどかけて、上海、西安、成都、桂林などを周った。

 北京は、飛行機の乗り継ぎの関係で、立ち寄っただけだ。
 待ち時間が数時間あり、本当は空港でおとなしく待っていなければいけないのだが、私たちは、どうしても天安門広場が見たいと、現地人のガイドさんと運転手さんに頼みこんで、バンを飛ばしてもらった。

 広場は、もう、事件の痕跡はあとかたもなかった。
 現地の人がいっぱいバラバラに歩いていて、兵隊の姿もちらほら見えた。ただ、当時の中国では、兵隊姿の人は、普段から、あちこちふつうに歩いていた。

 同行の友人が、
「うわ、これ、血じゃねぇ?」
と、地面を指さした。地面に赤黒い跡がところどころあった。
 それが、民主化を求めて、戦車に轢き殺された学生たちの、血の跡かどうかは、分からなかった。


posted by 田北知見 at 17:48 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年05月24日

明日があるさ(?)

 さっき缶コーヒーを買いに、会社を出て、外の自販機のところに行った。

 ガラスのドアに、自分の姿が映っていて、結構デブだった。(イヤ、以前から認識してはいたのだがw)

「かなりやばい。甘い缶コーヒーを飲んでいる場合じゃない」
と思ったのは一瞬で、
「まいっか。甘いものを控える(←あくまで、やめるのではなくて、控える、というところがまた…(笑))のは、明日からにしよう」
と決めた。

 昔、「明日がある、明日がある、あし〜たが あ〜る〜さあ〜」という歌が流行ったなあ、とか、関係ないことを思って逃避してみたり。

 だから肥ってるんだよ。
 やせれる人は「今日からやめる」「今すぐダイエットを始める」とキッパリ言える、意志の強い人なのさ。
 と思ったりした(笑)。


(下の映像は、上記の本文とは関係ありません。好きなマンガの映像があったので、つけてみました)←ヌルくてすみません・・・。


posted by 田北知見 at 16:11 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年05月23日

先住民の悲しみ




 何年か前、シドニーへ旅行した時。
 ツアーだったが、自由時間に、『オーストラリア博物館』に1人で行った。
 印象に残っているのは、「石」の展示室や、「生物」の展示室。ものすごい種類の石や生き物(剥製)が展示してあって、
「やはりオーストラリアって、広いんだなあ」
と、実感した。

 アボリジニ文化の展示室もあった。
 ひとつ印象に残っているのは、現代アボリジニアン・アートのコーナーで見た、1枚の絵画だ。

 アボリジニ女性画家の作品だったと思う。
「アボリジニの女性たちは、社会では人種差別を受け、家の中では夫に虐げられている」
ということを、表した絵だった。

 私は、「気の毒に」と思い、そして、
「同じだよ。世界中の多くの女性が、そうなんだよ」
と共感を覚えた。

■安息できる場所がないのは、つらいだろうなあ・・・

 AFPの映像にある先住民の問題は、オーストラリアだけでなく、南北アメリカでも、太平洋の島々でも、どこでもあるだろう。

 北米での、イヌイットやアメリカインディアンが遭遇した、悲惨な歴史や「居留地」などの現状を読む(聞く・見る)につけ、同じ人種の人間として、悲しみと憤りを感じる。

 ハワイやサイパンに行った時、ハワイアン系やチャモロ系の人を見て、私は思った。
「政治・軍事的にはアメリカ、経済的には日本に占領され、我が物顔に振る舞われている。『ここはもともと、私たちの場所なのに』と不満を持たないのだろうか」

 私自身、アメリカやヨーロッパへ旅行に行って、
「これって、絶対、人種差別に基づく、いやがらせ」
と思う目に、たまに遭う。
 でも、日本に帰っちゃえば、少なくとも、人種に基づく差別を受けることはない。
 一方、彼らには、帰って一息つける場所はない。っていうか、もともと彼らにとって安息できるべき場所に、ヨソから人が入ってきて、しかもエバってるのだ。
 つらいだろうな、と思う。

 また、中米のある小国では、いまはインディオがほとんどいないという。なぜかというと、1500年代にスペイン人が侵入した時に、病気(風邪か何かだったと思う)を持って来たので、免疫のないインディオはほとんど病死してしまったのだそうだ。
 いろんなカタチの暴力(侵略)があるんだなあ、と思った。
posted by 田北知見 at 15:45 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年04月27日

日経の動物ネタ。

 4月27日付け日経朝刊の社会面『窓』のコーナーで、「クジャクが捕獲された」という記事が載っていた。
 記事の一部を下記に引用する。

 26日正午ごろ、群馬県みなかみ町上津の無職男性(69)が、自宅の家庭菜園でクジャクが野菜をついばんでいるのを発見、網で捕獲して沼田署に通報した。
 同署は…(中略)…遺失物として本来の飼い主を捜している。
 男性は24日にも菜園でクジャクを見掛けていた。同署は「珍しい落し物。早く持ち主を見つけたい」と話している。

 これを読んで、ふっ、と笑ってしまったのは、私だけではあるまい。
 男性が、
「よおし、きょうは菜園の手入れでも…」
と思って菜園に行ったら、クジャクが野菜をついばんでいた。驚く男性。
 想像すると、かなり可笑しい。

■日経の動物ネタ

 時々、日経、とくに夕刊に、「動物ネタ」記事が載る。私はひそかに楽しみにしている。

 以前、あったのが、「ヤシガニ」事件。(以下、記憶によるものなので、記憶違いがあるかもしれない。その場合は、すみません)

 関東地方にある工務店の庭で、男性がヤシガニを発見した、という記事だった。
 ヤシガニはふつう、南洋方面にしか生息していない。
 調べてみると、近所に住む別の男性が飼っていたことが判明した。男性の父親が、西表島かどこかに旅行した際に、連れて帰って、お土産として男性に渡したという。(とくに法には触れないらしい)
 飼っていた男性は「ある日、仕事から帰ったら姿が見えなかったので、心配していた。見つかって良かった」と話していた。

 これも、想像すると、かなり楽しい。
 庭でカサカサ音がするので、
「……?」
と思って見ると、ヤシガニが。
 ビックリしただろうなあ、とか思うと、すごく可笑しい。
 飼っていた男性も、まるで家族の一員のような言い方をしている。ほのぼのしてて、いいですね。

■もういっちょ、日経の動物ネタ

 別の日の、ほかの記事では「野鳥のタマゴ」事件を読んだことがある。(これも、記憶違いがあったら、すみません)

 どこかの公園に、野鳥が巣をつくって棲みついている。
 近所に住む、中国残留日本人孤児で、日本に住むようになった、60代の独り暮らしの男性が、巣から、タマゴを取って、ユデタマゴにして食べた、という記事だった。

 その野鳥が、保護の対象となる種だったため、近所の人が通報して、騒ぎになってしまった。
 男性は、そうとは知らなかったうえに、記事によると、「中国では、野鳥のタマゴを食べる風習がある」のだそうだ。
 知らなかったということで、「厳重注意」で済み、事なきを得たのだが、その男性は、
「タマゴがあったので、バケツに入れて持って帰り、茹でて食べた。あまりおいしくなかった」
と証言したそうだ。

 これも、光景を想像すると、かなりかわいい。
 男性が、
「おっ、タマゴがあるぞ」
と、バケツにタマゴをたくさん入れて持って帰り、ナベで茹でる。
 パクリと一口食べて、
「あんまり、おいしくないな……」
と、つぶやく男性。
 なんか、ほのぼのと、可笑しい。
posted by 田北知見 at 18:27 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年04月19日

長崎市長・伊藤一長氏の死を悼んで

 海外で、核兵器の実験等が行なわれるたびに、長崎市長名と広島市長名で、抗議と遺憾の声明を、必ず出す。
 この両市の市長は、毎年8月の、現地での平和祈念式典等以外にも、国際的な核廃絶活動や平和運動に、積極的に参加している。

 私がそういうことを知ったのは、ほんの数年前、広島市の『平和記念資料館』へ行った時だった。(同資料館には、それまでも、何度か行ったことがあったのだが。)

 資料館では、原爆や戦争の悲惨さを伝えるとともに、
「なぜ、こんなことになってしまったのか」
「二度と同じ過ちを繰り返さないためには、どうしたら良いのか」
「いま、核兵器廃絶や、世界の平和のために何ができるか」
「未来の平和のために、われわれに何ができるか」
といったことを、考えさせる内容となっている。

 国内外で時々見かける、「われわれは、こんなに酷い目に遭ったのだ」とアピールするだけのミュージアムとは、ちょっと違う。
 日本が、世界に誇れることのひとつだと思った。

 長崎市の『長崎原爆資料館』へは、最後に行ってから30年くらい経っているので、現在はどうなのか、よくは知らないが、同様の内容だと思う。

 核兵器も、銃も、いや、どんな兵器も武器も、ないほうが良いに決まってる。

 選挙後、次の市長には、どなたがなるのか分からないが、どうか、平和運動の灯を消さぬことを、伊藤市長の冥福とともに祈っている。
posted by 田北知見 at 17:51 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年04月18日

米バージニア工科大学で起きた、
銃乱射事件について。

 ニュース映像の写真では、ふつうの男の子に見えた。韓国の、いや、日本でも中国でも、 どこにでもいそうな男の子だ。

 16日に、米バージニア州のバージニア工科大学で起きた銃乱射事件の、チョ・スンヒ容疑者の写真を見た時の、私の感想だ。多くの人が、同じように思ったことだろう。

 報道によると、チョ容疑者は、クラスで「笑いのネタ」にされていたという。それは、彼がアジア人だということと、関係があるのだろうか。

 それとも、ただの変な、嫌なヤツだったのだろうか。
 欧米では、一般的に、韓国や日本や中国をはじめとしたアジア人男性の多くは、「男尊女卑で尊大な、イヤなヤツ」あるいは「暴力的なコミックやゲームに脳を冒された、ヘンなヤツ」というイメージがあるようだ。
 報道によると、チョ容疑者は、複数の女性に対するストーキングだかセクハラだかで、かなり問題になっていたそうだ。

 どちらにしても、無辜の人々を30人以上も殺してしまったのだ。どんな事情があろうとも、彼は、最悪の犯罪者の1人だ。



■アメリカ人のすごさ

 同事件の一連の報道で、
「アメリカ人って、やっぱりすごい」
と思ったことがある。

 たとえば、銃を持った犯人が教室に入って来ようとした時、ある教授は、自分を盾にして教え子を銃撃から守ろうとし、撃たれて亡くなった、とか。
(この教授は、厳密にはイスラエル人で、ナチスのホロコーストの時代を生き延びた人だったという)

 たとえば、別の教室では、犯人が一度立ち去って、再び戻って来ようとしたのだが、学生たちが協力して、ドアにバリケードを築いて押さえ、再入室させないようにした、とか。

 日本の学校で、同様の事件があったら、たぶん同じようにはならないだろう。

■台湾での体験

 事件の報道に接し、思い出した。
 もう10年以上前、台湾へ旅行した時の話だ。

 台北市内を歩いていた時に、たまたま、軍の施設の前を通った。門の前に、銃をかついた哨兵が立っていた。
 私はそれに気づかずに、連れと歩きながらふざけていたところだった。はずみで、嬌声をあげた。(私も連れも、当時は20代の女子だったのでw)
 すると、その哨兵は、ためらうことなく、銃をこちらへ向けた。安全装置が、かかっていたかどうかは分からない。
 連れは、一瞬で状況を判断し、
「逃げなきゃ!」
とか何とか叫んで、走り始めた。
 私は、その場に、ぼさっと突っ立って、
「何が起きたのか?」
を、見極めようとしていた。
 幸い、発砲は、されなかった。

 あとで、
「うーむ…。私のようなボケは、何かあったら、まず一番に死ぬな…(笑)」
と思った。

■アメリカでの体験

 やはり10年以上前、アメリカに旅行した時。
 確か、アリゾナ州フェニックスの『デニーズ』(ファミレス)で食事をしていた時だった。

 近くの席に1人で座っていた白人男性が、ずっと1人で喋っていた。
 私は英語がサッパリなので、連れ(台湾の時とは別の人)に、
「あの人、何を言ってるの?」
と訊いてみた。
 彼女は、アメリカに何年か住んでいるので、英語が解る。
「なんか、神様がどうの、とか言ってるみたい」
 日本にも、1人で喋っているヘンな人は、時々いる。
 しかし、その時、レストランのスタッフをはじめ、周囲のテーブルのアメリカ人客たちは、すごく緊張した雰囲気だった。皆、警戒したように、チラチラと彼のほうを見ている。
 結局、スタッフが通報したらしく、警官が何人か来て、彼を連れ去った。
 私は、彼女に、「なんであんなに緊迫してたのかな?」と、ノンキに訊いてみた。
 彼女は、こともなげに答えた。
「だって、足元に、大きなカバンがあったじゃない? あの中に、銃とか入ってるかもしれないし」
 そういえば、時々、アメリカのニュースで聞く話だ。怪しい男が、お店にいきなり入って来て、あるいは、いきなり立ち上がって、銃を乱射する話。
 私はその時、ようやく気がついて、ゾッとした。
 遅いっちゅーの(笑)。

 平和ボケ、なのだろう。
 いや、アメリカみたいな社会のほうが異常でしょ?と思いたいのだが。

posted by 田北知見 at 13:51 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年03月23日

城山三郎氏の訃報に接し、思ったこと。

 また1人、この国は、硬骨の士を喪ってしまった。
 作家・城山三郎の訃報に接し、私はそう思った。
                 
 それで思い出した。
 訃報ではないが、昨年、「田 英夫 参議院議員が、2007年通常国会をもって引退する、と表明した」との報道に接した時、同じように思った。
 この国のために、あきらめずに発言し続ける、硬骨漢がまた1人、政治の舞台からいなくなってしまう。

 1998年に、大田昌秀氏が沖縄県知事を辞めた時も、そう思った。

■「伝えるのは、戦争を体験した世代の責任」

 以前、このブログの、『趣味に走ってスミマセン』カテゴリ 2006年5月29日付けに城山氏のことを書いた。
 他の作家の中には、時代に迎合して、コロコロと変節する人もいるのに、城山は、そうではない。一貫して、「戦争は、勝ったほうも負けたほうも、ただただ悲惨だ。やらないやつが本当の勝者だ」と言い続けた。

 その本のなかで、澤地久枝氏との対談では、
「戦争の悲惨さを伝え、同じ過ちを犯さないようにするのは、われわれ戦争を体験した世代の務めだ」
ということを、確認し合っていた。
                 
 それで思い出したのが、画家の香月泰男だ。

 香月は、1911年、山口県三隅町(現 長門市)生まれ。美術教師だったが、召集を受けて満洲(現 中国東北地区)へ赴任。戦後、ソ連軍による、いわゆるシベリア抑留に遭う。
 帰国後、シベリア抑留に題材を得た「シベリア・シリーズ」などの作品で有名になる。1974年、死去。

 奥様の婦美子さんの話によると、香月は、戦後(帰国後)数十年、経った後も、シベリア時代のことが夢に出てきて魘され、夜中や明け方に目が覚めることが時々あったそうだ。
 そうして目が覚めると、シベリアで、望郷の思いのうちに亡くなった仲間たちのことを、
「あいつらのことを思うと、こうしてはいられない」
とつぶやき、夜中だろうが、明け方だろうが、そのまま起き上がってアトリエへ入り、絵筆を取っていたという。

■「戦争なんか、絶対、やるもんじゃないね」

 私は歴史が好きで、時によって、いろいろな時代に凝る。
 一時期、太平洋・日中戦争に凝った時には、関連書を何百冊か読み、いろいろな場所に行き、多くの証言を読んだり聞いたりした。
 東京・九段下の靖国神社とか、特攻隊基地のあった鹿児島の知覧とか、原爆が落とされた広島とか。ハワイのパール・ハーバー。サイパンの日本神社。韓国・ソウルの「日帝はこんなにひどいことをした」博物館。等々……。

 その結果、私が思った、旧日本帝国軍人の経験者の法則(笑)。

 軍隊で、おいしい目に遭った人。たとえば、(運良く、あるいは、親のコネで)企業でいうと、本社の管理部門のような部署に配属され、比較的、楽な任務に就き、シャバではお目にかかれないようなご馳走を食っていた、とか。
 そういう人は、「軍隊も、そう悪いものじゃない」とノンキなことを言っている。(たとえば、阿川弘之…が、そうだとは言わないが…)

 逆に、軍隊で、死にそうな目に遭った人。たとえば、あと数日、終戦が遅れていたら、自分にも出動命令が降りたはずで、確実に死んでいた、とか。隊内リンチで、もうちょっとで殺されそうになったとか。
 そういう人は、戦争の悲惨さ、恐ろしさを実感として知っているので、戦争にはノー、となる。
                 
 以前、旧陸軍にいた人の話を聞いたことがある。

 その人は、大学から、あるいは大学卒業後に召集された。
 なので、はえぬきではないのに、入隊して短期のうちに、企業でいうところの中間管理職クラスになってしまった。
 敗戦の時、ソウルだかピョンヤンだかにいたそうだ。

 私が話を聞いたのは、終戦から何十年も経ってからのことだ。
 しかし彼は、つい昨日のことのように、忌々しげな口調で言った。
「敗戦がわかったとたん、一番上のヤツらが、一番先に飛行機に乗って、国に逃げ帰りやがった。俺たちに、『あとはちゃんとやっとけ』と命令だけして」
 しょうがないから、彼は、仲間たちと協力して、残すとマズい書類や証拠品を焼いたり埋めたりして、いろいろ処理をしたうえで、命からがら逃げ帰ったそうだ。

 その人は、私が話を聞いた当時、すでに70代だったが、私から見ると、かなり無頼な人で、そうした荒事を好みそうな人だった。
 なので、私は訊いてみた。
「戦争は、大変だったけど、おもしろかった、と思いますか?」
 その人は、ムッとした顔で、吐き捨てるように言った。
「戦争なんか、絶対、やるもんじゃないね」
posted by 田北知見 at 18:26 | 東京 ☀ | Comment(3) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年03月06日

球春に思う、メジャーリーガーの孤独

 私が初めて野茂英雄投手の試合を観たのは、10数年前、東京ドームの近鉄バファローズ(当時)戦だった。

 内野席だったが、ご存知のとおり、ドームの席って、かなり急勾配で、選手が遠くに見える。
 けれども、野球ド素人の私にも、
「あのピッチャーの投げ方、ちょっと変わってる…?」
と、わかった。
 一緒に観戦した人から、
「あれが、あのピッチャー特有の投げ方なんだよ」
と教えてもらった。

■過酷な環境下で、1球1球を積み重ねる

 次に野茂の試合を観たのは、彼がドジャースに入団した1995年、米ロサンジェルスのドジャースタジアムだった。

 日本人メジャーリーガーの先鞭として、当時、かなり話題になり、マスコミにも騒がれていた。
 あの変わった投げ方は、アメリカで、
「トルネード」
と呼ばれた。

 日本では、野茂が登板した日は、必ずといっていいほどニュースで取り上げられていた。
(当時は、衛星放送が今ほど普及しておらず、日本の家庭で、メジャーリーグの全試合を通しでふつうに見られる環境ではなかった。)
 スピード感のあるBGMや効果音、歯切れの良いスポーツキャスターのアナウンスを背景に、野茂がビュンビュンと投げる姿がテレビに大写しになった。

 私が試合を観に行ったのは、6月の暑い時期で、平日昼間だったせいか、好カードではなかったからか、スタンドは満員というわけではなかった。マスコミもあまり来ていなかった。
(ただ、日本の騒々しい応援に慣れているので、海外の試合は閑散としているように感じられただけかも)
 外野席なら、当日、窓口でチケットを買えた。

 野茂は、先発で出ていた。というか、確か7〜8回くらいまで、ずっと1人で投げていたと記憶している。
 遠くの外野席から見るせいで、野茂はとても小っちゃく見えた。(ホントはデカいのだが)
 カリフォルニアの刺すようにきつい日差しのなか、野茂は、1球1球、くるん、くるん、と小さなトルネードをつくっては、投げていた。
 日本のテレビで観る、派手で景気の良い光景とは、違っていた。

 もちろん、時と場合によっては、かなり華やかなシーンを見ることもできただろう。
 彼の経歴を見ると、メジャーで「日本人初のオールスター先発投手となった」「入団した年に、13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得」など、華やかな受賞歴が並ぶ。
 けれども、私は、
「この選手は、こうやって、1球1球を積み重ねているんだなあ」
と実感したのだった。

■あとに続く選手たちも

 松井秀喜選手がニューヨーク・ヤンキースに入団した2003年には、ふつうの家庭でも、メジャーの試合を、通しで観られるようになっていた。

 私は野球に関してはサッパリなのだが、「日本のトップ選手は、アメリカのメジャーで通用するのだろうか?」という好奇心から、最初の何試合かは、衛生テレビで、通しで観てみた。

 私が観た試合では、確か、1打席ごと(もしかしたら1球ごとだったかもしれない)に、グッドジョブの時は、景気の良いBGM、残念な時は、残念な音楽が流れるのだ。
 厳しいプロの世界で、当然といえば当然だが、1球、1打席もおろそかにはできないのだ、という緊張感を伝えてきた。

 また、確かNHKのドキュメンタリーで観たのだが、松井選手は、メジャーデビュー戦の朝、球場に向かう車の中で、インタビューを受けていた。デビューに向けて、ゆっくり緊張する(?)こともできないのだ。すごい精神力だと思った。

「あの人たちは、なんてスゴイところにいるんだ…」
と驚嘆したのだった。

 ボストン・レッドソックスの松坂大輔投手も、ぜひ、がんばってほしい。
posted by 田北知見 at 18:53 | 東京 ☀ | Comment(2) | TrackBack(1) | 〜について思ったこと

2007年02月26日

映画『ホテル・ルワンダ』と、書籍『僕の村は戦場だった』から、自衛隊の海外派兵について思ったこと。

 映画『ホテル・ルワンダ』を観た。
 南アフリカ、イギリス、イタリア映画だが、舞台は、アフリカのルワンダ。1990年代に起きた内戦と大虐殺を背景に、首都キガリの4ツ星ホテルで物語は展開する。

 同国人どうしで憎み合い、殺し合い、暴力を振るい合う、という悲劇に、そして、家族を守ろうとする人々の愛情や責任感に、私はまたもや、最初から最後まで、泣きっぱなしだった。

 が、ここでは、その話は措く。
 このすばらしい映画を観てください。また、ルワンダの大虐殺について知りたいかたは、実際に現場に遭遇し、命からがら助かった人の体験談を含め、関連書籍が数多く出ているので、それを読んでください。以上。(笑)

■海外派兵についての覚悟

 最も印象に残った点のひとつは、国連軍のことだった。

 ベルギーやカナダの多国籍軍だった。派遣された兵士自体の数も少なく、装備も関係諸国の援助も充分でないなかで、ルワンダ人の避難民を守ろうと、ベストを尽くしていた。
 状況を冷静に把握し、必要でなければ絶対に武器は使わない。しかし必要とあらば、ためらわずに撃つ。そして、兵士が何人殺されても、任務を完遂するのだという強い意志。

 もし、日本の自衛隊が、何らかの形でどこかに派兵され、そして戦闘や暴動その他に遭遇した時に、そうした行ないができるのだろうか? と思ってしまった。

■日本は得意分野の技術・資本援助に特化を

 というのは、最近、山本美香の著書『ぼくの村は戦場だった。』を読んだからだ。

 山本氏は放送系のジャーナリストで、これまでの約10年間に、アフガニスタンやウガンダ、コソボなどの戦地や紛争地帯を取材してきた。同書は、その時の見聞などをまとめたものだ。

 同書には、イラクでの、自衛隊派遣地域での地元民の声や、同国からの自衛隊撤退前後の様子も書かれている。

 地元の人たちが、日本から派遣があると聞いて、期待したのは、電力施設の増強といった技術面と、工場やお店の建設による雇用創出といった経済面だったらしい。
 それが、軍隊みたいなのが来て、特定の場所だけに給水をしたり、学校を整備したり(もちろん、これらも大事なことだが)、だけで帰ってしまったので、ガッカリした人も多かったようだ。

 私はこれを読んで、日本はやはり、技術と資本を求められているのね? と思ってしまった。

 中途半端な「派兵」は、需要に合致していない。地元の人には喜ばれず、日本にとっては、税金の無駄遣いと徒労に終わる。自衛隊員も、任務と世論の板ばさみで気の毒だ。
 そして、何が何でも「派兵」するのであれば、上記のような覚悟が求められるが、日本の自衛隊員には無理だと私は思う。(イラク派兵前に、数多くの自衛隊員の「そんなところに行きたくない」という声が報道されていた)

 何事にも「経済効率」が至上命題である日本において、こんなムダがあって良いのだろうか?
 日本にとっての得意分野である、技術と資本による援助・協力に特化したほうが、よほど喜ばれるし、税金も無駄遣いせずに済む。合理的ではないか。と思ったのだった。
posted by 田北知見 at 17:41 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年01月17日

私は、周囲の人に恵まれている。ありがたいことだ。

 きのう、エスケイジャパン(7608)が、東京・日本橋茅場町の東京証券会館で、個人投資家向けの『IRセミナー』(主催:日本インタビュ新聞社)をひらいた。
(内容は証券日刊ブログ『証券日刊ニュース』1月17日付と、携帯電話サイト『株マニ』1月17日付に掲載。また、株式専門紙『証券日刊新聞』にも掲載予定)

 私はその第2部『株・株・株 徹底討論』で、投資評論家の松本音彦先生、株式評論家の浅妻昭治先生、証券アナリストの水田雅展先生に続いて、末席を汚させていただいた。

 事前に、上司から内容を聞いて、自分なりに準備して行ったつもりだったのだが、知識不足と、緊張もあり、全然うまく喋れなかった。
 かなりヘコんだ。

■アドバイスをいただいた

 そこで、
「うまくできなかったよう…」
と、他人様に泣きついてみた。(←イヤ、実際そうしたわけではなく、ものの例えですが…w)
 すると、さらっと言われた。
「そんなの、全然ふつうだよ」

 その人は、メーカーの研究開発職で、時々、学会やシンポジウムで発表をすることがある。海外での発表の時などは、英語でやる。その人は言った。
「僕だって、言おうとしてたことの半分くらいしか喋れないことはあった。英語だと、さらにその半分だよ」
 そして、 
「反省点を、次に活かせばいい」
とアドバイスをいただいた。(「次」があれば…がんばります)

■自分自身が納得できるか

 また、別の人にも、
「仕事でうまくいかなくて、ヘコんでます。そういうことって、ありますか?」
と、投げてみた。

 その人は、医者なので、仕事がら、人の命にかかわることがある。要旨、こんな答えが返ってきた。
「患者さんが亡くなった時には、やはり落ち込む。遺族への説明義務(納得)と同じくらい、自分自身が納得できる(治療や施術を尽くした)かどうかが、重い」

■私の「うまくいかなかった」は、ぜんぜん小さい

 彼らは、私とは違って一流大学・大学院を出て、第一線にいる人たちだ。
 なので、もともとのレベルが違うことはわかっている。
 けれども、やはり、私の「うまくいかなかった」という、ヘコみは、ものすごく小っぽけだと思った。ぜんぜん小さい。もっと大人にならなければ、と思った。

 きのうの討論中、松本先生は、つたない私の説明にフォローを入れてくださったりした。
 終了後、上司や担当者に「せっかくチャンスをいただいたのに、うまくできなくて、すみませんでした」と謝ったら、皆、「初めはそんなもんだよ」と言ってくださった。

 私は、周囲の人に恵まれている。ありがたいことだと思う。
posted by 田北知見 at 17:12 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2007年01月11日

中東旅行で思ったこと

■ヨルダンと中国企業の意外な関係

 ヨルダン旅行で聞いた話を少し書く。

 ヨルダンは、中東の国でありながら、産油国ではない。なので、主要輸出品は「優秀な人材」だと言われているそうだ。
 また、最近では、アメリカの最恵国待遇(…だと思う。関税とかが有利になっているとの説明だったので…)であるという利点を活かして、中国系企業の工場を多く誘致し、安価で優秀な労働力を使って繊維・アパレル製品などをつくり、アメリカに輸出しているそうだ。

 このほか、紅海に面したアカバ(←地名)にある、同国唯一の港の再整備を進めている。
 現在の旧港はビーチに隣接しており、手狭となったため、リゾート用とし、少し離れた場所に大きな港をつくり、原油の輸入・モノの輸出などはそちらで行なうようになるそうだ。
 アカバでは、大規模なリゾート開発や大型ホテル新設計画も続いている。観光客の誘致にも積極的だ。

■外貨獲得のために石油を輸出するシリア

 シリア旅行で聞いた話。

 シリアは長い間、石油はないと思われていたのだが、最近、1980年代になって石油があることが確認され、「産油国」となった。
 産油量は、ちょうど国内の消費をまかなう程度なのだが、外貨獲得のために、その良質な石油は輸出にまわされ、国民は、周辺国から輸入した、質のあまり良くない石油を使っているという。
 その石油はお金を払って輸入しているのではなく、国内でつくった野菜などと物々交換で供与されているそうだ。

 外交面では、アメリカの干渉とは一定の距離を保ち、どちらかというと親ロシア・親中国路線だが、独自の姿勢を保っている。(←かなり穏健な言い回しだw)

 ゴラン高原について。
 同地に住んでいるシリア人は多いが、現在はほぼ実質、イスラエルに軍事占領されている。ゴラン高原内の一部地域の住民は、シリア人でありながら、シリアの別の地域と自由に行き来できない状況にあるそうだ。

■紛争地域と治安の良い国が隣接

 この2国を旅行した印象は、
「国内の治安は良い」
というものだ。
 隣接して、イスラエルやイラクといった、きな臭い国があるのだが、ヨルダン人もシリア人も、平和にふつうに暮らしている。
 私自身、旅行の行程で、イラク国境まで200キロくらいの場所まで行ったし、ゴラン高原の近くもとおった。少なくとも、その時は何もなかった。

 以前、日経新聞で、英国人の中東専門家が、インタビューで、
「紛争が激化する国の隣でも、治安を保ち、高成長を続けることは可能だ」
と言っていた。確かにそうかもしれない。

 ただ、たとえばシリアなんかだと、時々、空爆やテロがあるようだが(笑)。

■イラン・モデルとドバイ・モデル

 上記のインタビューではまた、
「今、中東の若者たちが魅力を感じるのは、米国やイスラエルに政治的に立ち向かう『イラン・モデル』か、経済成長に特化した『ドバイ・モデル』に二極化している」
ということだった。

 今回、一緒のツアー参加者で、イラン旅行の経験者がいた。
 その人たちから聞いたところでは、イランでは、旅行者も、女性は顔と手以外はすべて隠すことが義務づけられているし、アメリカ風のものは一切ないということだった。
(ヨルダンとシリアでは、MTV(米系の音楽専門チャンネル)のアラブ版みたいなものがあったり、ペプシコーラの大きな看板があちこちにあったりして、とくに嫌米的な雰囲気は感じられなかった)
 とはいっても、あとはふつうで、とくに剣呑な雰囲気はなく、むしろ現地の人々は素朴な雰囲気だったそうだ。

 一方、ドバイ。
 並外れたリッチさが、日本のテレビや雑誌などでもよく紹介されている。
 私は今回、飛行機の乗り継ぎで空港に立ち寄っただけだが、充分、驚いた。
 アメリカのものをはじめとして、お店にはモノが豊富にある。
 そして、ハブ空港になっているせいもあるだろうが、利用客もスタッフも、アフリカ系、ヨーロッパ系、アジア系…と、さまざまな人々が入り混じっている。

 また、ドバイの立地するアラブ首長国連邦をはじめとした、リッチな産油国では、いわゆる3Kなどの仕事をする人がいないため、インドなど外国からの労働者でまかなっていると聞いた。

■経済圏として無視できない存在に

 前出のインタビュー記事によると、その識者は、中東域内の今後について、次のように述べている。

「経済は全体として高成長が続く」
「毎年2%以上の人口増加」
「エネルギー輸出に依存した経済からの脱却を図り、ペルシャ湾岸諸国などでは外国人経営者を積極登用する一方、国民の職業訓練にも力を入れ始めた」
「これまで中東からの『輸出品』は原油と資金、ほかに強いて挙げれば宗教とテロだけだったが、工業製品輸出の時代がこれから始まる」

 確かに、報道や各社のニュースリリースを見る限りでは、自動車メーカーをはじめとして、さまざまな日本企業がドバイやエジプトに橋頭堡を築き始めている。
 中東は経済圏や市場として、また、そのおもな住民であるイスラム教徒系の人々は、もはや無視できない存在となっていると思った。

■偏見を乗り越えて

 私はこれまで、正直、「中東」とか「イスラム」について、
「あの人たちは、私たちとは、かなり違う」
といった、固定的な見方をしていた。
 それが、今回の旅行と、前回、2006年のゴールデンウィークに行ったエジプト旅行で、かなり緩和されたと思う。

 たとえば、お祈りの時間になると、大音量でアザーン(というのかな?お祈りの呼びかけやお経みたいなの)が鳴り響き、あたりにいる人たちがいっせいにその場にひざまずいてお祈りを始めるのでは、と思っていた。
 実際、アザーンが流れる場所もあったし、道端に敷物を敷いてお祈りしている人も、いなくはないのだが、私が見た限りでは、多くの人は、ふつうに生活していた。
 ヒジャブ(スカーフ)についても、私自身は嫌いだが、見慣れてしまえば、そう奇異には感じられなくなってくる。

 じっくりつきあえば、かなり価値観は違うのだろうが、ふつうに接する分には、ほかのアジア諸国や欧米諸国の人たちと、あまり変わらなかった。
 いつも海外に行って思うのだが、どんな国の人でも、根っこのところでは、同じ人間だと実感する。

 以前、やはり日経の記事で、別の中東人識者が、
「日本は、欧米とは違う伝統を保ちながら、近代化を実現した。そのノウハウは、イスラム国の参考になる点が多い」
という意味のことを言っていた。

 いろいろな価値観の人が、それを互いに押し付け合うことなく、うまく共存できるといいな、と思う。理想すぎだろうか?
posted by 田北知見 at 16:31 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年12月28日

さあ、2007年だ

 サラ・パレツキーの『ウィンディ・ストリ−ト』(山本やよい 訳)と、スー・グラフトンの『ロマンスのR』(嵯峨静江 訳)を読んだ。

 両作品とも、アメリカの女性探偵小説だ。1980年代から続いている人気シリーズで、新刊が出るたびに買って読んでいる。
 前者の主人公は、V.I.ウォーショースキー(通称 ヴィク)、後者の主人公は、キンジー・ミルホーン。両方とも女性探偵だ。

 1980年代に、『4Fミステリー』ブームの先駆けとなった作品だ。FはFemale(女性)のFで、主人公、著者、訳者が女性で、読者も女性が多いので、こう呼ばれていた。

 私が初めて読んだのは、20代の初めごろ、1990年代の初めごろだった。

 主人公のヴィクもキンジーも、タフで、すごくカッコいいと思った。
 タフっていうのは、体力的にも、精神的にも、だ。
 悪者を追って走ったり、塀を乗り越えたり、カーチェイスをやったり、銃を撃ったりもする。
 ピンチに立たされた時には、やはり人間なのだから、怖いと感じるし、それを認めることができる。その上で、それを乗り越える強さを持っている。
 それでいて、誰に対しても……それが犯罪者だろうが、刑事だろうが、いたいけな女の子だろうが……、誰に対しても、フェアで、適度にやさしく、適度にきびしい。
 そして、自分を律することができる。

 当時、20代前半でアホだった私は(今もアホだがw)、
「こんな女性になりたい」
と思った。いやマジで(笑)。

 そして、彼女たちの年齢に追いついた今。
 年齢だけは重ねたのだが(いや、馬齢かw)、中身は全然追いついていない。少しはマシになったかもしれないけど。というか、若いころがアホすぎたのだが。

 新しい年。少しでも進歩して、ヴィクとキンジーに近づけるよう、努力していこう。
 さあ、2007年だ。
posted by 田北知見 at 18:26 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年10月19日

「働き方」いろいろ

 先日、うちのマンションの郵便受けにチラシが入っていた。
 イオンのパートタイマー募集のチラシで、A4くらいの大きさで、フルカラー、裏表印刷。写真などの入った立派なもので、待遇などについてかなり詳しく書いてあり、さらに、働き方も、フルタイムに近いもの、育児などに支障がないよう短時間で働きたい人向け、学生アルバイター、と、いくつかのパターンが示されていた。
 募集に、かなり力を入れているな、と感じられるチラシだった。

■人手確保が大変らしい

 それを見て、ひとつだけ、「あ、よかった」と思ったのは、パートのほうが学生アルバイターより時給が高めに設定されていた点だ。
 昔、あるスーパーの募集を見て驚いたことがある。
 学生アルバイターのほうが、主婦のパートタイマーより時給が高く設定されていたのだ。
 アルバイターは男子の力仕事を想定していたのかもしれないが、それにしても、社会経験が豊富な年配の女性(スーパーのパートタイマーは一定以上の年代の女性が圧倒的に多い)のほうが、学生アルバイターより安く使われているなんて、と、ビックリしたのだった。

 以前、ラーメン屋さんの主人に聞いた話だが、当時はまだ不況のどん底だったにもかかわらず、人を募集しても外国人しか来ない、と言っていた。
 いまは、飲食店どころか、物販やスーパーのレジでも外国人を多く見るようになった。
 ある店では、化粧品販売員兼エステティシャンまで外国人(苗字は日本名だったので、日本人と結婚したとか、そういう人だと思う)だったのには驚いた。
 過日は、アパレル大手が大量の販売員を、契約社員から正社員へ切り替えている、と報道されていた。
 どこも人手確保が大変らしい。

■教師に清掃業を義務づけてはどうだろう?

 「働き方」で、もうひとつ、思ったことがある。

 最近、学校の教師の心ない、または「教師として以前に、人としてどうなんだろう」みたいな言動が引き金のひとつとなって、児童・生徒が自殺したという事件がいくつかあった。

 あくまで私のイメージだが、教師って、大学を出てそのまま「先生」になってしまい、頭でっかちの世間知らずなかたが多い、というイメージがある。(新卒後すぐに「先生」と呼ばれるような仕事って、あんまりないと思う)

 教師は、教壇に立つ前に、一般的にきついとされる清掃業や販売(立ち仕事)、接客(いろんな人に接して勉強になる)とかを1年くらいやること、と義務づけてはどうだろうか、と思ったりした。
 そうすれば、少しは人の痛みのわかる人間になれるかもしれない。そういう人こそ、教育者にふさわしいと思う。いや、官僚でも政治家でも何でも。
posted by 田北知見 at 10:28 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年10月04日

高度に洗練された、アジア的な「なあなあ」

 確か、今年の8月に小泉首相(当時)が靖国神社に参拝した時のことだったと思う。
 中国や韓国でもさまざまな抗議行動があったが、その一環(?)として、台湾の活動家が、抗議のために、確か尖閣諸島(釣魚島)に上陸しようと船で近づいたと記憶している。(記憶違いだったらすみません)
 その時、日本の海保だか海自だかの船が近づいて威嚇(というのか?)すると、台湾船は引き返した。

 私は、そのニュースを読んだ時、これぞアジア的な「なあなあ」だ、すばらしい、と思った。
 誰も傷つけず、傷つかず、必要以上に事を荒立てず、お互いにメンツは保ちつつ、それでいて、お互いの気持ちはちゃんと伝わっている。(台湾にとっては「抗議」の気持ち。日本にとっては「その気持ちは解るけど、こちらとしても上陸を許すわけにはいかないのだ。解ってくれ」という気持ち。台湾にとっては「解った。しかし不満と抗議はしっかり伝えたからな」という気持ち)

 「なあなあ」とは、お互いのメンツを立てつつ、相手の気持ちをお互い思いやり、直接言動には出さないが、しっかりと意思は伝え合う、という、非常に高度かつ洗練された、(たぶん)アジア特有の、対人または外交手段である。(と、勝手に決めているw)

 たとえば、いきなりぶっ放してくる、ロシ…あの国や、自分たちと価値観の違うヤツらはならず者だと決めつけて、やたら戦争を仕掛けたがる、アメ…あの国などに、こうした高度かつ洗練された外交はできないものだろうか。
 そしてできれば、き…あの国も、どうか、こうした穏やかな外交をしてくれますように。(と祈っている)
posted by 田北知見 at 15:32 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年09月19日

「東京」≠「中央」

 過日、日経新聞の「地域間格差をどう是正するか」という記事で、次のような内容の記者の意見が載っていた。

「所得水準の低い地域は、低賃金で労働者を雇えるという利点を生かして…」
「工場を誘致できなければ、代わりに労働者を輸出すればどうか。…生産性と所得が低い地域から高い地域への労働移動は、経済全体の生産性の向上にも貢献する」
「公営住宅等を整備して、周辺過疎地域の高齢者を集め…」
「人の住むところに新たにに社会資本をつくるのではなく、社会資本のある場所に人が移り住むことを支援する。これが…現実的な政策であり…」

 この記者の目には、東京や大都市以外の場所は、経済的にも能力的にも貧困な人々の住む、生産性の低い、後れた、何の価値もない場所に見えるのだろう。
 この記者は、何の権利があって、「生まれた場所にずっと住んでいたい」という人たちや、地元の歴史や文化が好きな人たち、田舎の良さが好きで住んでいる人たちに対して、大都市圏に移住しろと言っているのだろう。ヒットラーみたいなことを言ってるなあ、とビックリしてしまった。

●地方って意外といろいろあるのに

 東京の人は、東京が日本の中央だと思っている。まあ、ある意味では正解なのだが。
 でも、東京の人は気づいてないだろうけど、地方にも人間が住んでいて、地元の歴史や文化もあるんだよ、といつも思ってしまう。
 地方の支店に「飛ばされた」とか「島流し」とか言うのを聞くと、うーむ…と思ってしまう。東京の人が「東京こそ一番」というのは、地方の人が「おらが村が一番だべ」と言うのと同じじゃん、と思ってしまう。
 まあ、1000年以上昔、菅原道真の時代から「地方」イコール「左遷」だったけどさ。

 大学の時、鹿児島市出身の友人が、冗談半分で(てことは本気半分か?)「鹿児島を日本の首都に」と言っていた。
「ええっ? 最南端の鹿児島を?」
とツッコむと、彼は「南西諸島まで含めた日本の版図からすれば、鹿児島県は必ずしも最南端ではない」と言い張っていた。

 鹿児島県知覧町の町立博物館では(私が旅行した時の記憶によると)、日本と東南アジア諸国の、農具や民話についての共通点などを映像展示していた。

 鹿児島県のたとえば坊津(現 南さつま市にある)は、古代〜中世にかけて、中国大陸への出港地として、また、中国、琉球、東南アジアとの大貿易港として栄えていた。
 その時代から江戸時代にかけて、薩摩藩は南西諸島の盟主であり、現在の鹿児島市はその「中央」だった。

 そういえば、福岡市の人の中には、福岡以外の九州内の出身者を、
「地方から来ている人」
という人がいた。
 大学の時、福岡に住み始めて最初に聞いた時にはビックリした。福岡こそ地方じゃん、って。でも福岡の人にとって、福岡は九州の中央なのだろう。

 青森県の十三湊(現 五所川原市内)も、中世は中国大陸との貿易港として、かなり栄えた大きな町だったらしい。
 坊津も十三湊も、私は行ったことがないが、現在は静かな町らしい。

 私が新潟市に旅行で行った時、地元の人に、
「田舎でしょう?」
と言われたので、「いえ、そんなことないです。すごく大きな街ですね」と答えたら、彼は誇らしそうに、
「ええまあ。日本海側では、ここと金沢市が1、2を争う大きな街なんです」
と言っていた。
 日本海側では。
 そういう発想があるのか、と思った。

 北海道は、私のイメージでは、寒い寒い北のはての国だった。
 しかし数年前、網走市に旅行して『北海道立北方民族博物館』に行って以来、考えを改めた。その時初めて知ったのだが、イヌイットとかラップ人とかの「北方民族」というくくりで言うと、アイヌは最南端の人たちなのだ。北海道が最南端…うわー…。
 そういえば10年以上前、歴史雑誌を読んで『オホーツク文化』というものがあると知って驚いたことがある。5〜13世紀の、オホーツク海を囲む地域固有の文化だ。
 でも考えたらシベリアやカナダ極北地域、北欧にも古くから人が住んでいたのだから、驚くにはあたらない。

 周辺国も一緒に描き込まれた日本地図を見ると、北海道や日本海側北部はロシアに近いし(稚内市内かどこかだったと思うが、ロシア人の船員さんがよく上陸する、港近くのお店にはロシア語の表示が貼ってあるらしい)、山口県や福岡県は朝鮮半島や中国大陸に近いし(街なかの表示にはハングルや中国語がけっこうある)、南西諸島や沖縄県からは台湾やフィリピンがすぐの場所にある(以前、奄美大島出身の人が冗談で「英語は苦手だが、タガログ語なら堪能だ」と言っていたw)。

 というわけで、東京は必ずしも中央ではないのだ。
posted by 田北知見 at 10:48 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年08月15日

いまだに、戦争が、

 私が小学校1年か2年生の時だったと思う。
 家にあった雑誌をたまたまひらいて、その写真を見た。
「……?」
何が写っているのか、わけがわからなかった。
 いま思うと、雑誌はアサヒグラフか太陽かなんかで、写真はベトナム戦争の戦場だった。(ベトナム戦争は私が小学校に上がった年に終わっているから、古い雑誌が置いてあったのだろう)
 私は子供心に、
「なにこれ…。…もしかして、戦争…?」
と驚いた。
 戦争は「昔あったこと」で、「過ちだったので、もうやらないこと」だと小学校で教わっていたからだ。
 雑誌の写真は、今この瞬間、どこかよその国で戦争をしていることを示していた。ものすごい衝撃だった。もう、戦争はこの世に存在しないものだと思っていたからだ。
 加えて、自分の日常と、テレビで見る世界(たとえば映画で見るアメリカとか)と、父が仕事で行って、帰って来てから話してくれる世界(たとえばオーストラリアとか)以外の世界があると知ったからだ。
 いまだに、戦争とか、飢餓とかにさらされている世界があるのだと、初めて知った。

 こんなことを思い出したのは、先日、イラン出身で、現在はパリやニューヨークでイラストレーターとして活躍している女性の書いた本を読んだからだ。
 彼女自身の、イランでの10〜14歳の時の経験を、マンガに描いている。(といっても日本のコミックふうではなく、どちらかというとレイモンド・ブリッグスの絵本みたいな感じ。でもモノクロなのでマンガだ)
 その時代、イランでは、革命、デモ、弾圧、クーデター、戦争があった。少女が直面するには、あまりに過酷な出来事だと思うのだが。
 彼女と同世代の私が、「どこかで戦争をやってるんだ…」とぼんやり思っていた同じ時期に。

 その本によると、当時のイランでは、男の子は10代で兵士になり、戦場に出て殉教しろと強制されたらしい。女の子は10代で結婚し、子供を10人くらい生むことが望ましいという圧力があったらしい。(戦時中の日本みたいだ)
 20歳にもならないうちに戦死してしまうことや、社会的な強制のもとで10人もの子供を生み育てることは、必ずしも気の毒ではないのかもしれない。世界にはさまざまな価値観がある。(でも、若い人に「戦場へ行って死ね」と言う人は、なぜか自分自身は安全な場所にいることが多い。女子に「子供をたくさん生んで育てるべきだ」と言う人は、おうおうにして自分自身は生むほうの性別ではないことが多い。永遠に他人事だと、何とでも言えるのだろう)
 けれども、子供はやはり、平和な社会で、安心して育つほうが幸せなのではないか。そして、高等教育や専門教育を受けたい子供は受けることができ、職業もそれぞれの向き不向きややりたいことや才能に応じて選択できる、という社会が良いのではないかと思うが。
posted by 田北知見 at 12:21 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年08月14日

誇り高い国として

 一時期、「日本の外交は土下座外交だ」と揶揄されていた。「あの戦争について、なぜそんなにいつまでも謝り続けなければならないのか」「なにを他国に遠慮する必要があるんだ」と批判が高まった時期があった。

 政治経済がボロボロで、世界中で「日本人と見たら密入国者かドロボーと思え」とか「日本人っていうと…テロリスト?」とか思われているような悲惨な国が土下座するのであれば、気の毒でみじめな感じがするが、日本はそうではなくて、世界トップクラスの経済力と技術力を持つ「大国」なのだから、悪かったことは潔く謝り、他国に配慮することこそ、
「うむ、さすがは」
と、さらなる尊敬を勝ち得る道ではないだろうか。

 私は海外旅行先で何度か、
「日本人? ならオッケーだ」
という態度を取られたことがある。
 最初は邪険に扱われても、私が日本人だとわかったとたん、扱いが良くなったりするのだ。
 エジプトでは、露店の男の子が言っていた。
「日本人? きちんとしてていい人ばかりだ。僕は好きだね」
 いい人というか、いいカモってことかもしれないが(笑)。いやたぶん、信用できる国民ってことだと思う。こういう信用力というのは、新興国とかが一朝一夕で築けるものではないのだ。

 自民党の次期総裁選候補の1人が、
「自信と誇りのもてる日本に」
と主張しているが、日本は現在、充分に自信と誇りの持てる国だと私は思っている。これ以上、「僕ちゃん、偉いんだぜ」と威張る必要はないと思うのだが。
 他者への配慮こそ、誇り高い国(人)のすべきことだと思う。
posted by 田北知見 at 14:18 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年08月10日

「ヒロシマ」について。

 10年以上前、アメリカに旅行に行った際、時々、
「やあ、どこから来たの?」
と声をかけられた。当時はまだ、そういう、気さくなアメリカ人が存在したのだ。
 そのたびに私は「トーキョーから」とか、「ヤマグチ出身だ」とか答えていた。
 一度、「ヤマグチってどこにあるの?」と訊かれて、
「ヒロシマの近く」
と答えたことがある。すると、相手の表情が微妙にこわばった。私は、
「あ、この人は『ヒロシマ』について知ってるんだ」
と思った。

 でも、どんな風に知っているのか、本当に知っているのかは分からない。

 20年くらい前、アメリカのドラマで、戦争が勃発してアメリカ本土に核爆弾が落とされる、という内容の作品を見たことがある。
 そのドラマでは、もちろんほとんどの人が死ぬのだが、シェルターとかで生き残った人々は、被爆して数日後にはもう、死の灰で真っ白になった大地を耕していた。(死の灰が白いところや、雪のように大地を被っているところからして、すでに考証が間違ってるのではと思った)
 雄々しいフロンティア・スピリッツは大いに結構だが、ドラマを見ていた私は、
「そんなことをしたら、すぐに死んじゃうのに…」
と、ビックリした憶えがある。
「アメリカ人って、そんなことも知らないんだ…」
 ドラマの制作には何十人、何百人もの人が関わっただろうし、アメリカでは何百万人、何千万人もの人がそのドラマを見たと思うのだが、誰も疑問を差し挟まなかったのだろうか、と呆然とした。
 アメリカ人の、核爆弾や放射能の恐ろしさに対する無知さ、能天気さに、あいた口がふさがらなかった。

 被爆の恐ろしさは、今なお続くチェルノブイリの惨状からも分かる。

 6年ほど前の2000年、ちょうど9.11テロの直前のころに、ハワイへ旅行した際、パール・ハーバーに行った。
 1941年に日本海軍が行なった真珠湾攻撃について、資料館と、当時撃沈された軍艦がそのまま保存されてメモリアルになっており、
「卑劣なジャップが卑怯な奇襲攻撃をかけた」
ことをPRしている所だ。(冗談です、すみません)
 私は、そうした史料や当時の映像を交えたフィルム上映を見ながら、
「うーむ、さすがにアメリカはアピールが上手い」
などとムカムカしていた。普段は戦争ぎらいの私も、やはり日本人としてはおもしろくなかった。トイレの壁にでも、
「Uncle Sam's Atom Bomb Killed 400,000Japanese!」
と落書きしてやろうかと思った。もちろん、やらなかったけれど。(っていうかこれ、文法的に正確なんだろうか。英語はサッパリなのだ。)
 それに、これは私の八つ当たりだ。ヒロシマとナガサキで40万人の日本人を殺したからといって、真珠湾の空爆で亡くなった数千人のアメリカ人が生き返るわけではないからだ。そしてもちろん、その逆もありえない。
posted by 田北知見 at 10:56 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

2006年07月27日

戦後のことは

 きょうの日経に、「韓国の情報機関が、金大中事件は旧中央情報部による犯行との結論を出した」と報道された。小っちゃい記事だったが。

 私がいつも読んでる雑誌「ビッグコミック」(「ゴルゴ13」とかが載ってるやつだ)に、在日韓国人のバイオリン製作者を主人公にしたマンガが連載されている。舞台は戦前〜戦後の韓国と日本だ。今号は、主人公の幼なじみが戦後、北朝鮮と韓国のスパイとして歩んだ、過酷な人生を垣間見せている。

 数年前、ソウルに旅行した。サッカー ワールドカップ日韓大会の直前で、街はとてもきれいだったし、地下鉄に乗って見に行ったスタジアムはピカピカだった。
 街なかで、デモをやっていた。日本で言えば銀座のような、一等地の街なかだ。
 そのデモのグループを、武装した警官隊が遠巻きにしていた。また、ネクタイ背広にコートを着た大柄で目つきの鋭い男性たちが、周囲のビルの屋上や街角のあちこちに立っていて、なにか無線で連絡を取り合っていた。
 いまの日本では考えられない光景だ。銀座のどまんなかに、武装した警官隊が数百人? ありえない。

 現地ツアーで国境の板門店に行った。
 ソウル中心部からバスで1時間くらいだったと思う。途中の景色はあまり建物もない、のどかな田舎の風景という感じだった。私は、
「日本と似てるなあ」
などとのんきに思っていた。でも、時々、道の上をまたぐコンクリートの門のようなものがあるのは、何だろう?
 現地人のガイドさんがなんでもないことのように説明する。
「あの中には爆薬が仕込まれています。北朝鮮から攻めて来られた時に、爆発させて瓦礫の山をつくり、戦車が通れないようにするのです」
 ゾッとした。

 10年ほど前に、台北に旅行したことがある。
 当時は台湾海峡で中国軍がしきりに「軍事演習」を行なっていたころだった。
 中国で「改革・開放路線」を掲げてきたトップのトウショウヘイ(←すみません、字が出てきませんでした)の危篤が伝えられており、トウが亡くなった場合は政治的な混乱が起きるのではないかと戦々兢々とされていたころだった。

 ホテルにチェックインした翌朝、ものすごい飛行機の轟音で、私は飛び起きた。戦争が始まったのかと思ったのだ。いやホントに(笑)。
 実は私が泊まったホテルは、空港に近かったのだが、ツアーでおまかせだったし、チェックインも遅かったので、そうと知らなかったのだ。ただの民間機の旅客機の発着音で起きてしまったというだけだった。まぬけな話だ(笑)。

 その話を、現地人のガイドさんにした。私は冗談半分に、
「中国軍が攻めて来たのかと思いましたよ」
と言った。ガイドさんも冗談半分に答えた。
「あなたにも、台湾人の気持ちが少しわかりましたね」

 朝鮮半島にしろ、中国と台湾のことにしろ、戦後のことは、日本には責任はない。
 けれどもやはり、戦前、戦中と被害者だった人たちが、戦後も、同民族どうしの問題とはいえ、政治的、軍事的に難しい立場で苦しんでいる。戦前、戦中と加害者だった日本人は、そうした問題を抱えることもなく、アメリカの庇護のもとで経済成長と技術革新だけを追求してれば良かった。いいんだろうか、と思ってしまう。いや、国際法とか戦争責任とかのむつかしい理屈じゃなくて、人情として。
posted by 田北知見 at 13:48 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと

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