2007年07月17日

もののふどもが、夢のあと。
――滋賀県 琵琶湖東岸に旅行して

 7月14〜16日の3連休、滋賀県へ旅行に行った。

 行ったのは、琵琶湖の東側で、長浜市、彦根市、安土町だ。
 観光した場所は、次のとおり。

〈長浜市〉
長浜城:木下藤吉郎(豊臣秀吉)が建てた城を再現(再建)。なかは歴史博物館になっている。
・ 琵琶湖沖の竹生島に、船で行った。
・ あと、お寺と神社いくつか。
・ 黒壁ガラス館:地元の作家さんのガラス製品とかが売ってある。そのあたりは、『黒壁スクエア』といって、観光客向けのお店とかが並ぶ一郭となっている。

〈彦根市〉
彦根城:江戸時代をつうじて、彦根藩主、井伊家代々の居城だった。江戸時代の建物が現存。
埋木舎(うもれぎのや):井伊直弼が青年時代に住んでいた屋敷。
・ そして、『ひこにゃん』グッズを大人買い。(笑)

〈安土町〉
安土城址:織田信長が築いた安土城の城跡。現在は石垣くらいしか残っていなくて、しかも山の上。登るのが大変で、汗びっしょり、足ガクガク。(笑)
・ 信長と安土城関連の博物館×3ヵ所
観音寺城址:佐々木六角氏が建てた、中世の城跡。現在は石垣すら、ろくに残っていなくて、しかもすごい山の上。……登るの、大変だった…いやホントに…。

■なぜ、残る/再建される城と、
落城したまま放置される城があるのか


 長浜城は再建され、彦根城は残っている。
 安土城と観音寺城は、あとかたもない。
「この違いは、なぜだろう」
と考えてみた。

 まず、ひとつは、長浜と彦根は「市」であり、安土は「町」だ。
 予算の規模や、町おこしのチカラ(地元経済力)の多寡が違うのだろう。

 次に、安土城と観音寺城は山上にあったので、条件的に、再建しにくいということもあるだろう。

 さらに、織田氏と六角氏は「敗者」だから。
 豊臣家も「敗者」だが、一定期間は政権を保った。
 井伊家は江戸時代をつうじて長期間、同地に君臨したし、その後も、同家から市長が出たりと、影響力も続いていたようだ。

■人々の支持を得たかどうか

 そして、最も大きな違いは、ものすごくザックリ言うと、
「地元の人々の支持を得たかどうか」
「自分ひとりの名声ではなく、地元の人々や、この国のことを真剣に考えていたか」
ではないか、と思った。

 信長は、自分の権力拡大と支配権の膨張のみを追求していた。(ように、私には見える)

 観音寺城の最後の城主、六角義賢(承禎)・義治は、信長との戦さで敗色が濃くなると、とっとと城から逃げ出してしまい、二度と戻ることはなかった。(と、私が見た資料には書いてあった)

 一方、秀吉は、長浜城の築城・入府に際して、城下の一定区画内の居住者・商家は免税とした。
 もちろん、城下を活性化することを目的として、近隣の町から商家や住民を誘致するために行なった施策ではあったのだが。
 その免税措置は、徳川期になってからも続いたそうだ。
 地元では、(徳川政権に憚って)『豊(みのり)神社』と名づけた神社を建立し、秀吉を祀ったという。

 そして、井伊直弼も。
 幕末、開国に踏み切ったことは、独断的ではあったのだが、そこには一片の私情もなかった。(ようだ)

■国盗りの衝動に(?)かられる眺め

 ただ、信長や六角氏を、現代の価値観で判断して、
「イヤなヤツだ」
と思うべきではないことくらい、私にも解る。(笑)

 当時はまあ、そういう時代だったし。

 それと、安土城址と観音寺城址、つまり山頂からの眺めで、信長たちの気持ちが解った。

 あのあたりは、琵琶湖と、その周辺に小さい湖がいくつかあり、平野が広がっている。川もあり、気候が良くて、田んぼが広がる豊かな土地だ。そして、そのところどころに、ポコッ、ポコッ、と、山がある。

 ようするに、豊かな土地で、山・川・湖などで区切られているので、豪族→戦国大名が興りやすく、かつ「陣地取り」(戦さ)に適した土地柄なのだ。

 そして、眺望がひらけていて、土地も、湖も、さらに向こうの山並みまで、どこまでも見渡せる。なので、
「もっと、遠くまで行って、その土地も盗りたい」
という衝動に、かられてしまうのは、解る気がした。

 遠い空に、雲間から、カーテンのように陽光が射しているのを見ると、
「唐・天竺か、さらに向こうのヨーロッパの、神や仏の見る景色か」
と思うだろう。というか、私は思った。(笑)

 信長が、安土城のうちの1層を八角形にして八方に向いた形にしたのも、内装に、中国やインドやヨーロッパをイメージした絵を描かせたのも、解る気がした。

■井伊直弼の再評価について

 むかし、都内の電車の中吊りで、井伊直弼のことを、
「開国の父」
と書いてあるのを見て、「はぁ!?」と思ったことがある。
 長州者(山口県出身)の私に言わせると、
「そりゃあ、なんぼなんでも言いすぎじゃろう」
ということになる。(笑)

「畏れ多くも勅許を得ずに、独断で開国を行なった、逆賊。しかも、安政の大獄で、わしらが吉田松陰先生を、死に至らしめた、にっくき仇」
というのは冗談だが、わりと最近まで、井伊直弼って、一般的に、そういうイメージだったと思う。

 最近、この10年ほどか、少し評価が変わってきたようだ。
 というか、幕末当時の幕閣・幕臣・佐幕派の人物の評価が変わってきたようだ。
 従来の評価では、
「無能者ぞろいで、黒船の恫喝におろおろして、なすすべを知らず、外国人の言いなりになって開国した」
「もう傾いている徳川の屋台骨を必死で支えた、時代を見る目がなかった連中」
と言われていた。

 しかし、最近は、
「いや、意外と有能な人物もいて、当時の国情でできる最大限の範囲内で、外国人との交渉を粘り強く行なったのだ」
といった評価がなされるようになった。

 研究が進んで、新しい史料が出現したり、あるいは、時代の流れ(明治〜戦前の勝者(薩長)史観がなくなってきた)もあるためだろう。

 私も今回、彦根城博物館と開国記念館を見て、井伊直弼という人物への認識を、新たにした。

 ただ、やはり、長州者の私としては、思ってしまう。

 直弼が「不遇の青年時代を過ごした」という『埋木舎』は、かなり立派なお屋敷だった。
 山口県萩市に残って(再現されて)いる、松陰先生の『松下村塾』は、もっと小さくてボロボロの陋屋だ。
 立場が違うとはいえ、当時の国内情勢ゆえとはいえ、必要であった政治判断とはいえ、やはり、
「松陰先生を、死なせる必要があったのか…?」
と、どうしても、思ってしまうのだ。

■もののふどもが…

 しかし、その直弼も、その施策ゆえに、尊攘派のテロリズムに斃れる。

 唐・天竺・ヨーロッパまで、と夢を肥大させた信長も、本能寺で灰になった。
 一代で天下人まで成り上がった秀吉も、豊臣家は、息子の代で、ツブれてしまった。

 私は、ひと気のない城址で、夏草が、さわさわと風に吹かれるさまを見ながら、兵(つはもの)ならぬ、
「武士(もののふ)どもが、夢のあと」
と思ったのだった。


posted by 田北知見 at 17:50 | 東京 🌁 | Comment(1) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと
この記事へのコメント
 以前会社に中国人研修生がおりました。
仲良しになって、どこでも好きなところを案内するから、日本のどこを見たいか聞いたところ「彦根」???との事。
彼の出身地の中国湖南省(というくらいですからでっかい湖の南側にある省なのでしょう)長沙市は、湖つながりで彦根市と姉妹都市なのだそうです。
姉妹都市というのも案外影響力があるもんだな〜と妙に感心した記憶があります。

ちょうど先週より睡眠導入本として読んでいるのが「歴史の夜咄 司馬遼太郎 林屋辰三郎」です。
その中で林屋辰三郎氏が日本列島は東と西、表と裏の両方になっていて、その「へそ」ともいえる水運の要衝が琵琶湖だ。
 天下統一のために織田信長がなぜ山門を倒さなきゃならなんかといえば、近江を支配する為で、信長が山門の目の前に安土城をつくるのも、やはり天下統一の拠点のためだ。「近江を支配するものは天下を制す」というのが私の持論です。
と述べています。
前述の中国人研修生を思い出しながら「彦根」のあたりだなと思っていました。

 そうしたところ、前回の「ひこにゃん」から今回の「彦根城」と田北センセから思いがけず彦根ネタが出まして、これは「彦根」にシンクロにシティ?などと感じています。
彦根関連株でひとつ・・・そんなまどろっこしいこと考えずいっそ宝くじでも買いに行きますか・・彦根に。
Posted by at 2007年07月18日 00:57
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