2007年06月27日

「慰安婦」問題について。




 従軍慰安婦問題について、国内の一部の人たちは、「なかったこと」にしようとしたり、「強制性はなかった」とか「旧日本軍は関与していない」と責任を否定したり、正当化しようとしたりしている。

 しかし私は、シロート考えながら、それは間違いだと思う。理由は、
@ 外交的な施策として、うまくない
A 史実を客観的に見ていない、あるいは知らない
B 人道的に間違っている
――の3点だ。

 以下、くわしく述べる。

■理由 @ 外交的な施策として、うまくない

〈他国からの、攻撃の口実にされてしまう〉

 外交の世界において、
「揚げ足を取られるようなネタを、他の国に与えない」
「自国に不利になるような、言質を与えない」
「攻撃の口実を、与えない」
というのは、鉄則(?)ではないかと思う。

(きょうの日経新聞の識者意見でも、やはり「政治家は、揚げ足を取られるような発言は避けるべき」とあった)

 従軍慰安婦問題についても、多くの国内のタカ派の人たちが指摘するように、
「アジア諸国が、外交の切り札に、あるいは、日本攻撃のネタとして使っている」
というのであれば、なおさらだ。
 攻撃のネタにされないようにすることが重要なのだ。

 日本はひたすら「謝罪外交」を続け、他の地域、たとえば欧米諸国が、
「中国や韓国も、なにも、そこまでしなくても…」
と、かえって日本を同情するくらいになれば、こっちのものだったのに。
 欧米諸国だって、旧植民地支配など、スネに傷を持つ身なのだから、心情的には、日本の味方になりやすいはずだ。

〈外交においては、パフォーマンスが重要〉

 なのに、ヘタなことを言う(安倍首相失言や、一部の議員・ジャーナリストの「反慰安婦」意見広告など)ものだから、アメリカなんかにまで文句を言われる始末。

 ドイツのように、ひたすら「自国の責任を追及」していれば、何か言われても、
「過去の過ちを清算する努力をしている」
と胸を張って言える。つけ込むスキを与えない。

 たとえばサッカーで、ラフプレイを受けてつっ転ばされた時に、わざと倒れたまま、しばらくジッとしていて、自分を転ばせた選手に、審判がイエローカードを出すのを待つ。
 あるいは、逆に、ラフプレイを注意されたら、両手を広げたり、肩をすくめて、
「私は何もしていないのに?」
というゼスチャーをして見せる。
 これが、国際ルール(?)なのだ。(笑)

〈政治家は「自分がどうか」ではなく「国益」を優先すべき〉

 安倍首相や一部の政治家は、「慰安婦問題を否定」したり、「中韓の内政干渉をハネのけようとする」ことで、マッチョなタフガイを演じている。(とくに安倍首相は、北朝鮮問題でのタフガイぶりがウケて首相になったものだから、その路線をウリにしようとしているのかもしれない)
 そのほうが、歴史のこととかをよく知らない有権者の票を集めやすいからだろう。確かに、外交は票にもカネにもならない。

 あるいは、個人としての「信念」から、本気でそう思っているのかもしれない。

 しかし、理想を言うなら、政治家ならば、票とか個人の考え、つまり「私」よりも、日本という国のためを考える「公」(私はこの言葉はキライだが、保守派の方々は大好きみたいなので、あえて使ってみた(笑))を優先させるべきだろう。

 たとえば、小泉前首相の靖国参拝問題。
 あれは、小泉氏自身の「信念をとおした」ということだったそうだが、そのせいで日本の外交が悪化した。
 つまり、小泉氏は、「日本という国がどうなるか」つまり「公」よりも、「ワタシがどう思うか」つまり「私」を優先した。一国の首相として、すべき選択ではなかったと思う。

■理由 A 史実を知らない

〈歴史の見方そのものを知らない〉
 慰安婦の強制性はなかったとか、軍の関与を否定する人たちは、史実を知らない、あるいは、客観的に見ていない。と、私には思える。

 たとえば、「証拠となる史料はない」という指摘。
 ちょっと歴史のことを知っている人なら、その指摘自体に無理がある、と判る。

 あるいは、断片的な史料や、自説に都合の良い証言だけをかき集めて提示して見せる。
 ちょっと歴史を知っている人なら、そういうことは、歴史を見るうえで、やってはならない禁じ手だと知っている。

 史実を直視し、認めたうえで、
「悪かった。でもあの時は、そうするしかなかった。しょうがないじゃん。でもごめん」
と言い訳をするのは、アリだと思う。
 しかし、「あったこと」(史実・事実)を「なかったこと」にするのは、科学的・客観的な態度ではない。

〈表面をなでただけで、歴史を知った気になっている〉
 私は歴史ファンで、一時期、太平洋・日中戦争に凝っていて、関連本を数百冊ほど読んだり、国内外のあちこちの博物館や資料館、軍関連施設に行ったことがある。

 次に挙げるのは、以前、読んだ話だ。

 ある保守派の有名ジャーナリストが、フィリピンのある地域で、もと従軍慰安婦の「取材」をした。もちろん、大物ジャーナリストだから、大勢のスタッフを使って、事前の調査や現地のプレ調査はしたと思う。
 そのうえで、彼女自身が現地に乗り込み、数時間だか、数日間だか、その辺りで訊いて周ったが、
「もと慰安婦だったと名乗る人は1人もいなかった」
「周囲の人たちも、そんな話は聞いたことがないと言った」
ということで、数時間だか数日だかで帰国した後に、そう「報道」していた。

(同じジャーナリストでも、誠実に取材をしているプロは存在するが)

 また、次に挙げるのは、別の本で読んだ話だ。

 史学を専門とする、ある大学教授が書いた本だ。
 やはり、フィリピンのもと慰安婦の証言を集めるために、フィールドワークをしたという話だった。
 ある年の夏に、1〜2ヵ月かけて、ある地域に行き、地元の人たちに訊いて周ったのだが、誰もそんな話は知らないと言われた。
 しかし、彼はあきらめずに、その次の夏も現地へ行った。
 そうして、3年目だかにようやく信用してくれたらしく、もと慰安婦という人が、
「実は……」
と話してくれたそうだ。
 以降、10年ほどかよって、数多くの証言を集めることができたそうだ。

 もと慰安婦や、その家族にとっては、つらい、思い出したくない記憶だ。それを、名乗り出て証言するのだから、よほどのことなのだ。そして、まだまだ沈黙を守っている人も、多いだろう。

■ 理由 B 人道的に間違っている

〈強制性や軍の関与 云々よりも…〉
 何事でもそうだが、やはり加害者は、「逆ギレ」する権利はないと思う。
 1人でも被害者が存在すれば、頬っかむりするべきではない。
 強制性があったとかなかったとか、軍の関与があったとかなかったとか、そんな論争以前に、被害者が救われるような、おカネではなくて、誠意を見せるのが人の道ではないか。

 ちょっと話は飛ぶが、以前、「南京大虐殺」論争があったころ、その被害者の人数が焦点のひとつになっていた。

 最も多い見積もりは、中国側の、数百万人(だったと記憶している)。
 最も少ない見積もりは、日本の保守派・タカ派の人たちの主張する、数百人(私が読んだなかでは、確かそうだった)。
「中国側は、被害者の人数を大げさに言っている。たった数百人のことなのだから、日本は気に病むことはないのだ」
という、ムチャクチャな主張もあった。

 しかし、数百人が1人だったとしても、虐殺は虐殺だ。
 アメリカ史で、独立戦争のきっかけのひとつになった、「ボストン大虐殺事件」(1770年)というのがあるが、「虐殺」された被害者の人数は、5人である。

 強制性や日本軍の関与の有無を云々する人たちは、大事なことから目をそらそうとしているように、私には見える。
 被害者だった人たちは、今そこに、存在しているのだ。


posted by 田北知見 at 17:42 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(1) | 時事ネタいじり
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