2006年09月27日

文芸と狂気(ちょっと大げさ・・・いやかなり大げさかw)

 秋になると、大好きな藤沢周平の時代小説が読みたくなる、と以前にもこのブログに書いたが、自分のペースで晩酌をしながら好きな本を好きなだけ読む。至福の時である。
 つめたく冷やした日本酒に、サシミ、煮物、とかの組み合わせが好きだ。日本酒はできれば京・伏見の複雑な味のものか、中四国の素朴でヌルい感じ(褒め言葉ですw)のもの、新潟の辛口のもの。私にとってはちょい贅沢な『上善如水』か、コンビニで売ってる『酔鯨』の安いラインのものでも、私にはじゅうぶん旨い。
 サシミは…デパ地下で買う、禁断のクルマエビがベスト。なぜ「禁断」なのか? 高いから(笑)。たまの贅沢だ。ふだんはスーパーで買うマグロでじゅうぶん幸せ。でも最近、燃料高のせいか、値段は変わっていないのだが、身の盛りが少なくなっている。トホホ。

 いかん、本の話を書こうと思ったのに、つい。

 で、藤沢周平。
 先日読んだのは、比較的初期の短編集『又蔵の火』。1970年代くらいに書かれた、直木賞を受賞後すぐのころの作品集らしい。
 暗い。最後に主人公が死んじゃう話が多く、しかも自業自得で救いがない。うう…。

 10年ちかく前、私が最初に読んだ藤沢周平の本は、町人ものの短編集『橋ものがたり』だった。登場人物たちはつらい境遇にいたりするのだが、仄かに明るくて、あたたかみのある雰囲気が気に入って、まずは町人ものの短編集を何冊か読んだ。それから武家ものの短編集、ハードボイルドもの、長編、歴史もの…と読み進んだ。
 その過程で、彼の出世作である『溟い海』や、直木賞受賞作『暗殺の年輪』を読んだ時、そのあまりの暗さに、
「なんじゃこりゃあああ!」
と驚いたのだった。

 藤沢は実際、
「初期の作品は確かに暗いと自分でも思う。読む人にどう取られるかというよりも、ああいったものを書かずにはいられない、自分でもどうしようもないものを抱えていた」
という意味のことを書いている。

 話は飛ぶが、松本清張の芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』を読んだ時も、最初から最後まであまりに暗く悲惨な主人公の人生に、私は、
「こ…これで終わり…? 救いはないの? 救いは…?」
と茫然とした。(いや、もちろん分かっている。主人公にとって、小倉日記伝を書くこと自体が救いだったということは、私にも分かっている。)

 詩人の中原中也は確か、
「自分のすぐ横に、暗い穴が開いていて、気を緩めるとそこへ陥ってしまう」
みたいなことを書いていたと記憶している。「暗い穴」とは、狂気の世界だろうと私は思った。
 芥川龍之介の自殺の原因「ぼんやりとした不安」も、狂気とか鬱とか、そういう種類のものではなかったかと、しろうと考えで私は思っている。

 ゴッホの絵を見て私がいつも感じるのは、
「これを描かなければ…僕は…狂ってしまう…」
という魂の叫びだ。自分のなかにある狂気を、絵の具に託してカンバスにぶつけているように見えるのだ。

 文芸をはじめとした芸術の源は、いろいろある。自然の美しさへの礼賛、神への祈りや感謝、表現そのものを目的とした作品、等々。
 自分のなかにある暗さや狂気の発現も、そのひとつかもしれない。


posted by 田北知見 at 12:09 | 東京 | Comment(0) | TrackBack(0) | よいこの読書感想文
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