2006年08月02日

歴史作品、ふたつのタイプ

 作家の吉村昭が亡くなった。
 報道では「歴史小説や記録文学で功績」と報じられている。
 その作品は、なんというか、ひたすら事実を積み重ねて行って、その出来事なり、人物なりを浮き彫りにしていく、そんな感じだ。それで「記録文学」と言い表されているのかもしれない。
 私にとっては、尊敬している作家の1人だ。

 歴史に、…戦争でも何かの出来事でも特定の人物でも何でも良いのだが、歴史に題材を取った小説…、いや、厳密には小説と呼べないのではないか、と思われる作品もあるので、ここでは勝手に「非ノンフィクション」(ストレートに「フィクション」と呼ぶには違和感があるので)と呼んでおく。その、非ノンフィクションは、私にとっては大雑把にいって、2種類に大別される。

 たとえば、司馬遼太郎の作品。
 絵でいうと、印象派とか、似顔絵イラストみたいな感じだ。史実を柱にして、柱と柱の間にあるものは創作する。「あり得たかもしれない」出来事を創る。人物像も、少しデフォルメしたり、かなり特徴づけて描かれる。
 山田風太郎(…ここに入れて良いものかどうか…w)や柴田錬三郎もこのタイプだ。
 別に歴史や歴史上の人物に対して誠実でないというわけではなく、
「小説は、面白おかしくなくっちゃ」
という考え方なのだ。
 司馬遼太郎が生前、インタビューで、記者から、
「あなたの書くものは、必ずしも史実に即していないようだ。史実をありのままに書くつもりはないのか」
という意味のことを訊かれて、
「そんなものを書いても、読む人に元気をあげられないじゃないか」
という意味のことを答えたそうだ。

 もうひとつは、吉村昭のように、事実だけを、または綿密な調査や取材の結果、事実と判断したことだけを書いていく作品。
 絵でいうと、17世紀オランダ絵画や、写実主義の絵のような感じだ。藤沢周平もこっちのタイプだ。
 冒頭にも述べたように、事実の集積によって、歴史上の出来事や人物を描いていくやり方だ。より綿密な調査や取材が必要になる。根気のいる仕事だ。
 以前、吉村昭がエッセイで(いや、もしかしたら白石一郎とか別の作家だったかも。違ってたらすみません)、
「1行を書くために、数日かけて調査した」
みたいなことを書いていた。それも、こちらのタイプの作家たちには、珍しいことではないのだろう。

 私はどちらのタイプの作品も面白いし、スゴイと思う。尊敬する。


posted by 田北知見 at 11:33 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 趣味に走ってスミマセン
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