2008年08月12日

降幡賢一・元 朝日新聞記者の講演 『日航ジャンボ機墜落とチーム取材』を聴講した

 過日、元 朝日新聞編集委員 降幡賢一氏の講演『日航ジャンボ機墜落とチーム取材』を聴講した。
(先日、映画『クライマーズ・ハイ』を観たこともあり、この事故と関連報道のことは、気になっていたのだ)

 1985年8月12日、羽田発大阪行きの日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗客乗員520人が亡くなった事故について、当時の朝日新聞社がどう報道したか、等に関する講演である。

 講演概要は以下のとおり。(文責・田北)

■ 降幡氏の講演
 『日航ジャンボ機墜落とチーム取材』概要


〈事故発生〉

 朝日新聞社では、時事通信の速報を12日19:13にファックス受信した。機影が消えて20分も経っていない頃である。
 社内では
「すわ、墜落か」
と緊張が走り、騒然となった。
 満席のジャンボ機。528人が乗っている。

〈スクランブル体制〉

 出稿の〆切時間は何段階かあり、19時は一番早い版の〆切時間だ。
 その出稿が終わり、記者たちは食事に出たり、宿直記者と交代する時間帯だった。
 が、緊急体制ということで、盆休み中の記者も含めて呼び出しがかかった。
 私(降幡氏)は当時、社会部の記者だったが、ビールを飲みに出ようとしていたところを、部長に呼び止められた。

 現場へ向かう記者が指名された。

 また、社会部記者だけでなく、運輸省(当時)や防衛庁(同)など、関係官庁の担当記者や、官邸担当の政治部記者、地方支局を統括する通信部(現 地域報道部)、経済部・学芸部・運動部などもそれぞれ、関連情報をチェックする。

 整理部や校閲部、社説や天声人語を書く担当者も緊急体制となった。
 また、広告局や販売局等とも連絡を取る。場合によっては広告を外す交渉をクライアントと行なったり、新聞の店着遅れも想定されるためだ。

 現場派遣記者のクルマの手配をする運輸局や、現場から電送無線で写真を送れるように電送無線車の手配をする制作局、現場へ出る記者の経費や装備などを手配する編集庶務(現 サポート部)なども動く。

 系列の放送局と連絡を取ったり、海外メディアの提携先へ配信記事を送る外信部なども対応を取った。

〈現場の特定に手間取る〉

 しかし墜落現場が判らない。
 朝日新聞の初稿見出しは
「碓氷峠に墜落か」
というものだった。
 自衛隊 百里基地から飛んだ偵察機が、事故トラックの炎上を誤認してしまったためだ。

 さらに、横田基地からの偵察機が、長野県の佐久方面へ飛んだという情報もあった。ほか、目撃情報もあった。
 自衛隊と日航の正式発表も、当初は「長野山中」だった。
 そのため、13日付け朝刊9版の見出しは
「長野山中で炎上」
となっている。

 朝日新聞は21:06、ジェットヘリ『ちよどり』号に、写真部記者を乗せて飛ばした。

 22:00ごろ、本社に報告があった。
 長野・群馬・埼玉3県境の三国峠〜群馬県の御巣鷹山あたりで燃えているのを確認したという。
 社内では、どう表記・掲載するか議論となった。
 まず、暗いうえに地面に県境の線が引いているわけではないため、何県と表記すべきか明らかではない。
 さらに、燃えている地点は確かに確認できたが、墜落地点とは別かもしれない。

 そのため、見出しは、11版では
「群馬県山中で炎上」
最終14版では
「長野・群馬県境で炎上」
となっている。
 その際、掲載された写真が、各社報道のなかで最も現場に近い写真となった。

〈現場派遣〉

 現場派遣記者は、朝日新聞社の場合、東京からと名古屋からで、約100人だった。
 つまり、他社の記者も合わせると、数百人が山の中へ入ったわけだ。
 が、上記のとおり、当初は墜落現場が判らなかった。

 結局、明け方近くになってから、墜落現場は御巣鷹山と特定された。
 当社の場合、現場へたどり着き、生存者救出の現場に居合わせた記者は、2人だけだった。
 無線機はバッテリーが切れかかっていたため、第一報はかなり短い原稿となった。

〈生存者救出――新聞とテレビの速報性〉

 13日11:00前、生存者4人を確認。
 消防・県警などが救出し、生存者をヘリコプターで吊り上げて、病院へ緊急搬送した。

 その場を取材できたのは、上記2人のほか、数社の記者数人が居合わせた。
 朝日新聞の場合は、写真を撮影してフィルムをヘリで本社へ送り、社内で焼き付けた。
 その送りと焼き付けに時間がかかり、降版に一部、間に合わなかった。

 一方、フジテレビは機材を山中へ持ち込み、生存者救出・搬送を生中継した。
 新聞は、最大限、努力して、ようやく翌朝の朝刊に間に合った。
 画像報道、あるいは速報性という面で、新聞がテレビや(後のネットに)負け始めた瞬間だった。

〈過熱報道について〉

 また、当時は「報道」のあり方を問い直された時期でもあった。
 ロス疑惑豊田商事事件と、スクランブル(集団過熱)取材への批判が高まっていた頃だ。

 日航機事故についても、遺族への過熱取材や、乗客名簿や乗客のプライバシーにかかわる内容が掲載・報道されたことなどで、新聞・テレビはかなりの批判を受けた。

 以降、犯罪被害者の人権への考慮や、日本新聞協会では「スクランブル取材はしない」という協定を結ぶ、必要なら代表取材とするなど、業界内の取り決めがなされている。

〈報道にかける情熱〉

「何が起きているか、知りたい」
「言いたいことがある人がいるなら、聞いてあげたい」
「そしてそれを(たとえば、話してくれた遺族の話を)伝えたい」
というのは、記者の本質だと思う。

 現場を見たい。全感覚をもって、その場で起きていることを見て、聞いて、感じて、伝えたい。
 それが記者のサガであるし、使命だと思っている。

 「記者がサラリーマン化した」、「ネットや記者クラブの発表で情報を集めている」と言われる今でも、その本質は変わっていないと思う。

■聴講後、私(田北)の感想

 最後の、
「現場に行きたい。そこで起きていることを全感覚で見て感じ、それを伝えたい」
というのは、(レベルは全然違うけど)私も解る。

 講演後の質疑で、事故遺族関係者から
「でもやはり、あの時の報道はやり過ぎだった。私はとても傷ついた」
「もう少し早く、自衛隊や消防団が動いてくれれば、生存者はもっといたのではないか」
という意見が出た。

 第三者の私としては、
「現実的には、無理だったんだから…」(社会的な環境や、二次遭難の恐れもあった)
と思うが、でもやはり、遺族や関係者としては、
「もう少し、どうにかなったのではないか」
と、どうしても思ってしまうのだろう。それも解る。

 今年で23年。
 例年の慰霊登山をはじめ、今年は同事故の遺品展示が、11日から、東京・大田区の日本航空 安全啓発センターで始まった。
 真実の事故原因について、再調査を望む声が今もあるそうだ。
 関係者にとっては、まだ、終わってはいないのだ。


posted by 田北知見 at 17:05 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 〜について思ったこと
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。